個人

2025年01月20日  個人 その他の 動植物
DSCF7017DSCF70182025年1月19日午前11時45分、ニュース記事を検索している合間に中庭を除くと、オスキジ2羽、メスキジ2羽の計4羽が餌場に居る。5年ほど前にキジ1羽を中庭で確認し、毎年冬に餌を用意し初めて以来の事で、一昨年、去年は3羽、今年は4羽が来ているのは分かっていたが、同時に餌場に集まったのは初めて見た。1羽のオスが特に大きく見えるが、これがファミリーなのかは不明だ。キジの食事が終わるまで、スズメや野鳥たちは木の中でじっと待機していた。いつもは一緒に啄(ついば)むが、大きいのが4羽で驚いたのかもしれない。
あと2か月ほど、餌の乏しい時期が続く。元気に冬を乗り越えてほしい。餌台の間口は、約35cmx25cm程だが、4羽居ると小さく見える。外気温3度、薄曇り無風。最初の2羽から、5年ほどたって4羽になった。こんなうれしいことは無い!過去ブログ:2025年1月今日のキジのオス:1月今年の中庭に来ているキジは全部で4羽

北海道のキジは、首に白い輪が在るコウライキジで、元々北海道には本州にいるニホンキジ(国鳥)は生息していない。猟友会により1930年(昭和5年)から狩猟用に放鳥されたものが野生化したもので、数は少ない。そうまでして、鳥を撃ちたい気持ちは理解できない。筆者から見れば、くだらない、馬鹿どもの遊びでしかない狩猟などしてもらいたくない。皮肉なことに、民家のある場所では発砲できないので、キジは山に居るより、中庭に居る方が安全だ。キジたちもそれを分かっているのか、午前中に来て、食べたり雪の上や低木の下で休息したりで、半日中庭で過ごすのが日課だ。吹雪の時などは、中庭の木の中で夜を過ごす。其の為、横風を避けれるように、オンコの木の中や垣根の中はすでに細工をしてある。
nappi11 at 00:01│Comments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック
2025年01月18日  その他の 動植物 個人
DSCF7011DSCF7015今の所、例年から見ると異常に雪が少ない札幌で、昨夜数センチ雪が積もり、午前11時頃、キジのオス1羽が餌場にやって来た。右は、根元に餌場のあるオンコの木。
カメラの調子が悪く悪戦苦闘したが、何とかカメラの調整は出来たが、色々試した結果、画像再生の不具合はSDカードと、パソコンで見る際の読み取りアダプターのようだ。

DSCF6426DSCF6242長年同じ外付けアダプターを使っているので、こんな事も起きるのだろうが修理には手こずった。カードを変え、アダプターを直して試し撮りもかねて撮ったのが左の写真で、空は薄曇りだが、雪の反射で色がきれいに出ている。最近はスマホのカメラも随分良くなったが、昔の癖で、ファインダーを覗いて撮るのにこだわり、最近も程度のいいFUJIのコンパクトデジカメFinePix S9800をネットで購入した。発売から10年以上経った機種だが、50倍の望遠内蔵と単3電池使用なのが気にっている。これの前に使っていたのがS9900で、それにはWi-Fi機能が在るが、使う事も無いのでS9800にした。凝った写真を撮る際は一眼レフのPentax K-50だが、最近は風物を求め、交換レンズや三脚を持って遠出する事も少なく無くなった。もっぱら、冬期限定の中庭食堂に来る、たくましく生きる野性たちの観察と記録撮りを楽しんでいる。名も無い美しい野性たちの存在を、多くの人にも見て貰いたいから。そして、共存する事は、自分の生きている証でもある。 過去ブログ:2025年1月今年の中庭に来ているキジは全部で4羽

nappi11 at 00:02│Comments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック
2025年01月13日  個人 その他の 動植物
今年中庭の餌場に来ているキジは全部で4羽と確認した。一週間ほど前オス2羽とメス1羽を確認していたが、昨日メス2羽が来ているのを確認できたので、昨日のメス2羽の内1羽が以前に来ていたとすると、来るのはばらばらだが、オス2羽、メス2羽の計4羽が餌場を利用しているようだ。
DSCF6455DSCF6457カメラが壊れ、同機種を購入したので試し撮りを兼ねてメス2羽を撮影した。人間と同じで、歳を取るといろんなものが壊れてくる。物にも耐用年数が在るから仕方ないが、何時までも使い慣れたものを使いたいものだ。
今年は、DSCF6467今の所温暖な冬で、雪もも少ない。来ていたメス2羽はまだ子供なのか、仲良く一緒に行動しているので姉妹かもしれない。右は食べ終えて、近くの大きな庭石の上で休息している様子で、一度食べては1時間ほど休んで、また食べるのを繰り返す。
大体午前中に来て、その日最後の食事は2時半頃で、それを終えると、古巣へ飛び立つか、天候や風の強さによっては中庭の木の中で一夜を過ごす。
DSCF6468DSCF6469今の所天候が穏やかなので、キジたちは2時半頃には飛び立っている。飛び立つ際は、中庭の雪の上を歩いて庭の東側へ移動して低木の下に身を隠し、回りを十分警戒してから飛び立っている。速度の出ない、離陸の時に猛禽類などに襲われないための知恵だろう。
キジは食い溜めが出来るのか、最近は1日おきに来るサイクルの様だが、バラバラに来るので、ほぼ毎日2羽ほどのキジがやって来ている。これが例年3月くらいまで続く。餌は市販の鶏用の餌で、それに、納屋に残っていた豆類を若干足している。過去ブログ:2024年12月12月6日、今年も雪と同時にキジが中庭にやって来た
2025年1月14日:今日は午前10時半、オス1羽とメス2羽の計3羽が仲良く餌場に現れた。昔はよく、オスがメスを追い回していたことが在ったが、3羽仲良くいるので兄妹の関係だろうか?目測だが、メスは頭から尾の先まで40cm程、オスは50~60cm程だ。札幌平野部はここ1週間ほど雪もさほど降らず気温も高い。道内の他の地域ではかなりの積雪もあるのだが、、。
nappi11 at 00:00│Comments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック
2025年01月01日  軍事 戦争 紛争 個人
FireShot Webpage Screenshot #1839 - '2025巳年新年あけましておめでとうございます。
昨年正月には、ウクライナ紛争の進展に追われ、地域紛争で収まらない今世紀最大の問題だと書き残しましたが、現実はその通りで、さらにイスラエルの紛争も起き、とんでもない時期に生きているなと言うのが実感です。、、、この文章、昨年とまったく同じで、敢えて同じものを載せました。つまり、2年間進展がなかったばかりか、世界情勢は悪化したと言うしかありません。
fac918fd世界情勢がますます複雑になる中、日本のメディアにはその詳細を積極的に報道しようと言う姿勢が欠けている。紙面の都合もあるとは言え、誰が文字だけで情勢を理解できるだろう。例を挙げれば、左の様な込み入った地域で事件が起きて、文字だけでは場所の理解は不可能だ。結果的に、今の国際情勢が複雑すぎると言う見方が多くなってしまう。そんな手抜きの国際記事が有料では、益々時間を割いて読む人は減るばかりだろう。実に嘆かわしい状況だ。国際情勢の変化は、直接、間接的に日本にも多きな影響が在り、世界戦争が起きる可能性すら在ると言うのに、、。同時に日本の今後の外交の見直しもしてもらいたい。参考:【日本外交の現在】安倍・岸田・石破政権の外交評価/日本外交劣化の原因/内にこもる日本の外交/戦後

DSCF6301今年の中庭では、キジ3羽やスズメ(今年はなぜか群れがやって来ない状況で、小柄な若いのが数羽だけ)、野ネズミ1匹、キツネ1匹(わざと餌場は違う場所にしているが、中庭で休むことが多い)が越冬のため餌場に毎日集P1010001まっている。今年のキジは、オス2羽、メス1羽で、オス同士喧嘩もしないのでみんな同じ家族なのか?今日も雪で、大型除雪機を契約しているとはいえ、家の周りは手作業で汗を掻きながら雪かきの毎日だ。高齢になった猫のミーは腰を痛めたが、病院での治療と、筆者の毎日のマッサージで回復。筆者も同じ症状で、やはり歳には勝てない。今年の皆様のご健康を願いつつ、新年のあいさつとします。
新年の早朝は外気温2度、薄曇り無風で小雪も止み、眩しく光る餌場でスズメが餌を食べています。
nappi11 at 08:53│Comments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック
FireShot Webpage Screenshot #1805 - 'Oh damn!写真は、これから起きる交通事故直前の様子だが、起きた現実は想像の域を超えており、ポップコーンを食べながら見ていた筆者は思わず吹き出して、パソコンを大掃除する羽目になった。記録映像
何か作業をしていたお兄さん、大怪我で無かったのが幸いか、、。しかし、何度見ても、その反応が面白すぎる。英文の題は英文で「ああ、くそー!穴へ直撃!」とある。このサイトは、通常下品でグロな映像しか載せないので、なぜこんな動画を載せたか不明だが、とにかく笑えた。タイトルは確かに下品だが。
nappi11 at 00:01│Comments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック
2024年12月13日  ネコ 個人
image gggfd一緒に暮らすペットの間には種を超えた特別な絆で結ばれるものもいる。物心ついた時から常にそばにいた、年老いたゴールデンレトリバーのルーシーと、ラグドールの猫、ジョシーもまさにそんな関係だ。記録動画は、年老いて顔が白くなった犬のルーシーの腕に猫のジョシーが前脚を寄せ、寄り添うところから始まる。ジョシーは産んだばかりの子猫たちを、真っ先にルーシーに紹介したくて、運んできていたようだ。

3-25-690x513 母猫は警戒心が強く、我が子を隠す本能があるが、ジョシーはルーシーに絶大なる信頼を置いていて、姉のように慕っている。そんな関係だからこそ、すぐにルーシーに見せたかったのだろう。ルーシーも母親のジョシーをいたわりつつ、小さな子猫たちにやさしいキスをして挨拶をした。ルーシーに絶対的な信頼を寄せているジョシー。母親になってもまだまだ自分もルーシーに甘えたいようだ。参照記事 別動画:めんどりが猫に卵を見せたくて


nappi11 at 00:01│Comments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック
2024年12月12日  環境 自然 個人
GeBSf92asAAtO2g気象庁は2024年12月5日、北海道、東北、関東甲信、北陸、東海、近畿、中国地方に「大雪に関する早期天候情報」を発表した。東北日本海側では12月11日頃から5日間降雪量が平年比233%以上と見込まれるということだ。「早期天候情報」はその時期としては『10年に一度レベル』しか起きないような著しい低温や高温、降雪量となる可能性が、いつもより高まっている時に注意を呼びかけるために出される情報という。
IMGP1539 jhg、、、、今日11日、札幌は朝から雪だ。今年はまだ平地の積雪は10cmにも満たないが、近くの山間部のスキー場は充分な雪が在り、多くがスキーを楽しんでいる。冬の雪は仕方ないが、PC110003低温は厄介で、道路はアイスバーンで、断熱の悪い家では室内の水道管が凍結したりする。数年前の大雪の時は、連日朝起きると雪が積もっていて、早起きして玄関前、車の周り、鳥の餌場の除雪で疲れ切った記憶が在る。予報が外れるのを願うしかない。今日は雪と風で来れなかったのか、少し風の止んだ正午頃になってキジのオスが大きなオンコの木の下で、遅い朝ごはんを食べている。過去ブログ:2024年12月12月6日、今年も雪と同時にキジが中庭にやって来た
nappi11 at 00:01│Comments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック
2024年12月07日  個人 その他の 動植物
DSCF6408DSCF6409今日2024年12月6日午後3時過ぎ、今年初めて中庭に来たキジのオスを確認した。昨年は12月18日にオスのキジ1羽が来た。
昨日の夜から今朝にかけて数センチの積雪があるとの予報だったので、5日の夕方に中庭の餌台に餌を今年初めて用意して置いた。6日の午前中に餌台を確認すると、多少減っていて、庭の端から一直線に大きめの鳥の足跡が確認出来た。まだ、雪が積もると集まってくる30羽ほどのスズメは1羽も姿を見せないので、餌はキジが食べたのだろうと推察した。まっすぐエサ台に向かっているので、今年の春4月まで来ていたキジだろう。
そう思いながら3時過ぎにリビングの窓から外を見ると、雪の上で休憩しているキジを発見し写真を撮った。夕方にかけてはキツネも来るのにと見ていると、案の定キツネが姿を見せたが、すでにキジはそばにある木の中に姿を隠していた。
6a9f0606昨年の冬から今年の春までは、毎日キジのオスとメス2羽、計3羽が来ていたので、後日メスが来る可能性もある。無事に夏を過ごし、雪が降ると同時に例年通り来てくれたのがうれしい。左下の写真は、2023年12月に、その冬初めてやって来たオスの写真。これから4月まで、キジとスズメへの毎日の餌の用意が筆者の日課だ。キツネには年中毎日で、すでに10年近くになり、キジやスズメたちは冬に来はじめて5年ほどになる。過去ブログ:2024年11月里山の身近な鳥や蝶が急減、絶滅危惧種並みの減少率も:2023年12月今年も中庭のエサ台にキジを確認:これから、餌を用意する方も食べる野生たちも、厳しい冬との戦いが始まる。大雪や吹雪も在るだろう。時には、自然は厳しすぎると泣き言も言いたくなるが、みんな元気に春を迎えよう!今は夕方の5時半、気温はー2度だ。今日はキジのメス1羽も来た。早くから来ていたオスは、中庭の木の中で夜を過ごすようだ。
IMGP15372024年12月9日:朝8時、多少吹雪気味の中、オスがエサを食べていると、餌台のある木の中からメス1羽が降りてきて餌を食べ始めた。時間から見て、2羽とも中庭で夜を過ごした可能性がある。厳冬期をまえに体力をつけたいのか、かなり時間を掛けて餌を食べていた。通常なら昼頃もう一度食べて、3時頃にその日最後の食事をして、木の中に入って眠りに就いたり、古巣へ飛び立つ。天気が悪いので、今晩も中庭に泊まる可能性が高い。まだ今年スズメたちの群れは来ていないが、もうすぐやってくるだろう。スズメたちは朝6時には集団でやって来て、日没前まで食べたり、休んだりを中庭で繰り返し一斉に自分の巣へ帰る。ここ数年、30~40羽と数は変らない。左は、今日確認できたキジのメス。食後、庭の大きな石の上で仮眠している。オスよりかなり小柄だが、気温が低いので羽毛に空気をため込み丸く膨(ふく)れている。今日は1日中0℃以下だった。
nappi11 at 00:01│Comments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック
FireShot Capture 36 - Glob当ブログの左サイドで使っていた「現在の閲覧者」( visitor counter&map):右 は、サポート終了で消えています。閲覧者様側の問題では無いのでご心配なく。代替えパーツがあればいいのですが、見当たりません。10年以上使っていたので残念です。
当ブログの編集上、その利便性から古いアプリやアドオンを使用する為、ブログ用のパソコンでは、OSにwindows7,ブラウザはwatefox classic を使用しています。ここ最近は色々映像閲覧上不具合も在りますが、何とか他のブラウザも使いながら今に至っています。記録上は、2024年11月18日時点で、ライブドアでブログをはじめた日2010/09/27 から現在5166日目で、これまでの投稿数12265と在りますが、ライブドアブログへ移行前の6年分の一部が、MSブログからの移行時に消え、それらは加算されていません。、、、今日夕方は外気温0度、雪が降っている。そんな景色を見ながらブログをまとめるのが好きだ。ウクライナも、ほぼ同じ気温だ。過去ブログ:2022年2月猛烈な吹雪で家からも出られない。野性達は元気
nappi11 at 00:00│Comments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック
2024年11月15日  その他の 動植物 個人
01生物多様性が危機にあることを示す国内、国際2つの報告書が2024年10月に相次いで発表された。環境省と日本自然保護協会は、里山や里地に生息する鳥や蝶(チョウ)など身近な生物の個体数が急速に減少していることを示す報告書を10月1日に発表した。
imagesbbbgf bvcimageshhhgindex bvcx bbbbg長期間にわたる大規模全国調査の一環の結果で、鳥類ではスズメやオナガなどの種が、また蝶類では国蝶のオオムラサキといった以前はなじみ深かった種が、絶滅危惧種認定基準以上の減少率であることが明らかになった。

 また、世界自然保護基金(WWF)は生物多様性の豊かさを示す指数が、自然環境の損失や気候変動により過去50年で73%低下したとする報告書を10月10日に発表。生態系は回復不可能な状況に近づいているなどと強い危機感を示した。

気候変動や森林破壊・環境汚染といった人為的要因によって絶滅の危機に瀕している生物は増え続けている。国連・生物多様性条約第16回締約国会議(COP16)が10月21日から11月1日までの日程でコロンビアのカリで開催された。2つの報告書はCOP16に向けて生物多様性の危機を具体的なデータで示した形だ。参照記事 2d7d2ee6、、、毎年根雪になるころから春までスズメに餌を与えている。餌の多い時期は1羽も来ないが、冬は毎朝30~40羽が朝6時頃定期的に来て、夕方まで専用の餌箱に集まる。5年前からは、8時から9時頃、キジがやって来て同じ餌を食べる様になった。去年はオス1羽、メス2羽の計3羽が毎朝来て、毎年、春になると来なくなる。天気の悪い日は中庭の木の中で夜を過ごす。今年はどうなるか、、、。特に北海道の冬は、野性には厳しい環境になったようだ。数年前と比べて、カエルの数も減ったように思う。減る一方の自然。人が人工的にでも増やさなければならない時代ではないのか?知り合いの養蜂家は、農薬が原因でミツバチが激減していると言っている。研究機関と言うのは変なもので、調査ばかりで、何の対策も打ち出さず、彼らが絶滅に近いと言う時はすでに手遅れだ。何が本当の目的なのか聞いてみたいものだ。時代は、何を何から守るのか非常にあいまいで抽象的な政治用語と化した「保護」ではなく、人間社会との「共存」を求めていると思うのだが?乱獲と湿原の開発で絶滅と言われたタンチョウツルは、冬場の給餌の甲斐もあり、100年経ってやっと現在1000羽以上に回復した。 過去ブログ:2022年2月猛烈な吹雪で家からも出られない。野性達は元気:2019年5月約100万種の動植物が絶滅の危機に瀕している:2月5日ぶりに戻ってきたキジたちとキツネのママさん


nappi11 at 00:01│Comments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック
2024年10月25日  歴史、史実、記録 個人
index んbv第一世界大戦中、アメリカ大統領のウッドロウ・ウィルソンは『14カ条の平和原則』を発表。この原則に基づき、1920年に国際連盟が発足。国際連盟は歴史上はじめての世界規模の共同体となり、同年には常設国際司法裁判所も設立された。

しかし、アメリカやロシアなど大国が不参加により国際連盟は失敗。第二次世界大戦が発生。その国際連盟の反省によって生まれたのが現在の(日本語呼称)国際連合。

「1945年、終戦とともに国際連合は国際法のひとつである国連憲章を取り決め、同年に国際司法裁判所を設立。第二次世界大戦前には合法だった戦争を違法化し、国連が必要と判断した場合のみ平和的解決の手段として経済制裁や武力行使ができるようになりました。」参照記事 

日本で国連と略される国際連合「 the United Nations」(連合国)という言葉が初めて用いられたのは、第二次世界大戦中、日独伊の枢軸国と対戦していた26か国が、アメリカ合衆国のワシントンD.C.に集まり、1942年1月1日、枢軸国への対決を明らかにした「連合国共同宣言(ワシントン宣言)」においてである。

つまり、第二次大戦の連合国=前大戦戦勝国が結束したのが国連なのだ。その国際連合憲章(以下「憲章」)では、日本など「第二次世界大戦中に連合国の敵国であった国」(枢軸国)に対する敵国条項: Enemy Clauses、独: Feindstaatenklausel、または旧敵国条項 )で規定した第53条および第107条と第77条の一部文言は今も削除されることなく有効であり、常任理事国は戦勝国から選ばれ、議会運営に於いてこれらの国は「拒否権」などの特権を保有している。

FireShot Webpage Screenshot #1686 - '国連の通常以上、事実関係と流れを書いたが、筆者が問題としたいのは、国際法は明らかに存在するが、「 the United Nations」(連合国、或は連合国家群)を国際連合=国連と訳されたのは天下の誤訳ではないのかと言う事。其の英語名のどこにも「国際」なる意味は全くないのだ。上記の太文字で表記した部分を、連合国、または戦勝国と読み替えると、日本語の国際連合=国連の陳腐さが分かる。

また、このことで「国際法は国際連合(通称 国連)が決めているもの」と思っている人が多いが、「国際法を決めているのは国連ではありません。じゃあ、誰が作っているの?というと、誰でもありません。」というのが現実で、極端に言えば、国連は、インターナショナルでグローバルな国際機関では無いとも言える。特定の国が作ったのではなく戦争参加国のみんなで作ったのが国連であり、国連憲章で在ると言う解釈も出来るが、ならば、差別的な敵国条項は削除すべきなのだ。日本は世界3位の分担金支出国だ。

 


nappi11 at 00:01│Comments(3) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック
2024年10月18日  個人 その他の 動植物
FireShot Capture 203 - XユーザーのTaraBullさん_ 「南アメリカのコロンビアで、容態が悪化し、救急車で運ばれていく飼い主Alejandroさんを愛犬が追いかけ続ける姿が、後ろを走っていたバイクの運転手によって目撃された。この救急車は40km離れた病院まで向かう予定だったのだが、必死に追いかけ続けていた。見るに見かねたバイクの運転手は犬が追いかけていることを伝えようと救急車に合図を送った。映像 
Tono--the-dog-from-Colombia_191fafd2471_large2024年9月、コロンビア、ボヤカ県Boyacá, Colombiaのトゥンハ市Tunjaで、トーニョ Toño と言う名の犬が必死に救急車を追いかけ続けていた。救急車を追いかけている犬の様子を見たバイクの運転手はドライブレコーダーでその姿を撮影していた。合図に気づいた救急隊はすぐに救急車を停めて救急車のドアを開けると、トーニョはすぐに飛び乗ってきた。
Video-La-historia-de-Ton日本ではおそらく許可されないだろうが、国や地域によっては、状況に応じて救急車の中にペットを乗せることが許される場合もある。これまで、ブラジルペルーなどの南アメリカのケースでは、状況によって飼い犬を救急車に特別に乗せてもらえることがあった。参照記事 英文記事 、、、、イスラエル軍のレバノンでの地上戦で、兵士と共に撃ち殺された軍用犬の映像を見た後のこの映像にほっとした。人が住む環境に居る動物たち。大事にしてやりたい。今日は夕方、家の周りにシカが現れ、草を食べていた。今年はこれから自宅横の大型倉庫の屋根塗装と、依頼された2階建て住宅の全面改修が在る。もう日中でも肌寒くなってきたので、その合間を縫って、外回りの冬対策を始める。まずは、傷んだ道路の補修から、、。
2024年10月20日:昨日蓄熱暖房機のブレーカをオンにした。20日夕方5時半外気温8度、室内17度。室内はTシャツだが、外は無理。朝方は5~6度になる。外気温に連動して蓄熱するので、まだ放熱量は少ない。このまま春まで自動運転か?気温はウクライナとよく似ている。
nappi11 at 00:01│Comments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック
2024年10月04日  個人 ネコ
FireShot Capture 171 - XユーザーのPosts Of Catsさ子猫がベッドの上に乗り、カバーで遊ぶのが楽しくなっちゃって、グチャグチャにしていたのを目撃した母猫は、すぐに教育的指導。子供も動物も、いたずらをしたらその場で叱らないと効果はないことを知っているのだろう。これだけでもすごいのだが、この後母猫は、「うちの子が本当にすみません」とばかりに、乱れたシーツをきっちりと整え始めたのだ。Xに投稿された動画に登場する母猫が、多くの親御さんはもちろん、一般の人々にも称賛されている。
子猫に対し、肉球鉄拳と言う名の教育的指導を行う母親。「あんた何度いったらわかるの。飼い主さんのベッドをグチャグチャにしちゃだめでしょ」てな具合なのかもしれない。子猫は母猫に怒られると、そのままどっかに飛び去って行った。参照記事   、、、作られた映像の様にも思えるが、見ていて、こんな猫もいるかもしれなと思わせる映像だ。  映像:人間のマスクをハンモックに寝る子猫
nappi11 at 00:00│Comments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック
2024年09月04日  個人 歴史、史実、記録

k-read2.kokugakuin.ac.jpどんな天才にも、輝かしい「光」に満ちた栄光の姿と、その背面に暗い「影」の表情がある。、、、天才をこよなく愛する科学哲学者が、新たな歴史的事実とエピソードの数々を発掘し、異端のノーベル賞受賞者たちの数奇な運命に迫る!※本稿は、月刊誌『Voice』の連載(「天才の光と影 異端のノーベル賞受賞者たち」計12回)のネット記事よりコピー。、、、高橋昌一郎(國學院大學教授)氏:左上 による以下の記事が何時ネットから消えるか知れないので、筆者がブログに保存します。一部写真などブログ筆者が記事内に追加添付しています。

230117TakahashiShoichiro01  エリート一家に生まれた神童ヴォルフガング・パウリWolfgang Ernst Pauli, 1900~1958年)は、1900年4月25日、オーストリア帝国のウィーンで生まれた。パウリの祖父ヤーコブ・パーシェルスは、出版業界で大成功して幾つかの出版社を経営するようになったユダヤ人だが、ユダヤ教の熱心な信者ではなかった。先見の明があった彼は、ヨーロッパに反ユダヤ主義が蔓延する将来を見越して、1898年に一族の姓をユダヤ系の「パーシェルス」から「パウリ」に変更した。

FireShot Capture 30ヤーコブの息子ヴォルフガング・パウリWolfgang Joseph Pauli:左 は、カレル大学医学部を優秀な成績で卒業し、23歳の若さでウィーン大学私講師になった。その後、医学部教授に昇格し、タンパク質の研究で世界的に知られるようになる。

Pauli002彼は、1899年にカトリックに改宗し、カトリック教徒の作家ベルタ・シュッツと結婚した。その1年後に生まれた長男に、自分と同じ名前を付けたのである。さらに彼は、ウィーン大学の同僚で尊敬する哲学者エルンスト・マッハに長男の「ゴッドファーザー(名付け親)」になってくれるように頼んだ。そこで、パウリのミドルネームは「エルンスト」となった。右は1歳のパウリ。

  正確性を求め機転の利く少年:パウリは、幼少期から言語能力が高く、何事に対しても正確性を求めた。彼が4歳のとき、母ベルタの妹エルナが散歩しながら「今、私たちはドナウ川の橋の上にいるのよ」と言ったところ、パウリは「叔母さん、それは違うよ。僕たちはウィーン運河の上にいる。ここからドナウ川に流れていくんだよ」と説明したという。

1906年9月に妹のヘルタが生まれると、パウリは自分が新たに知ったことを何でも妹に教えるようになった。彼女は、生涯にわたって兄パウリのことを尊敬し、彼が亡くなるまで、常に手紙の末尾に「お兄様のことが大好きな妹ヘルタより」と記している。

Pauli0031910年9月、10歳のパウリは、ウィーンの名門校として知られるデブリング・ギムナジウムに入学した。彼はどの教科でも最優秀であるばかりでなく、機転が利いたので、同級生の人気者だった。とくに彼が得意なのは、先生に綽名を付けることだった。パウリが上級生の頃、教師の中に、身長が低く、生徒が大騒ぎしていると突然集団の中から現れて大声で注意する先生がいた。パウリが彼に付けた綽名は、「Uボート」だった!

imageshggfパウリが12歳のとき、ミュンヘン大学の著名な物理学者アルノルト・ゾンマーフェルト(Arnold Sommerfeld, 1868- 1951年 教え子4人がノーベル賞受賞):左 が相対性理論について講演するためにウィーン大学を訪れた。すでに大学レベルの微分積分学や力学を自力で修得していたパウリは、父親の紹介によって、特別に大学生の間に交じって講演を聴くことができた。

講演終了後、ゾンマーフェルトは際立って年の若い少年に「君は私の話を理解できたかね」と尋ねた。パウリは「よく理解できましたが、黒板の右上の式だけはわかりませんでした」と答えた。その式を見上げたゾンマーフェルトは、「何ということだ。私としたことが、この式は間違っているじゃないか!」と叫んだという。

 178 ミュンヘン大学とヒトラー:1918年9月、18歳のパウリはドイツのミュンヘン大学に入学した。すでにパウリの才能をよく知っているゾンマーフェルトの指導を受けるためである。パウリは、さっそく最初の2年間に相対性理論に関する3編の論文を完成させて、ゾンマーフェルトを唸らせた。

1920年になると、ゾンマーフェルトは「もはや私が君に教えることはなくなった」と言って、パウリを一人前の研究者として扱うようになった。朝が苦手なパウリは、夜をビヤホールやキャバレーで過ごし、夜中に集中して論文を書き、大学に出てくるのは昼過ぎか夕方だったが、ゾンマーフェルトはパウリの自由にさせた。

この年にミュンヘン大学に入学してきたのが、パウリより1歳年下のヴェルナー・ハイゼンベルク(Werner Karl Heisenberg31歳でノーベル賞受賞)である。後にハイゼンベルクは、パウリから「君はまったくのバカだ」と何度も罵られたにもかかわらず「パウリの批判は常に有益だった」と述べている。二人の天才は親友になり、その後の生涯にわたって文通を行なった。ハイゼンベルクが不確定性原理を発見できたのは、パウリのアドバイスのおかげだという説もある。

このころ、ゾンマーフェルトは『数理科学百科事典』の編集委員を務め、「相対性理論theory of relativity」の項目を担当していた。驚くべきことに、彼はこの解説論文を共著で書こうではないかと大学2年生のパウリを誘っている。その後、ゾンマーフェルトは、「私よりも君のほうが適任だ」と言って仕事を丸投げしてしまったため、結果的にパウリが単独で解説論文を書き上げることになった。

さて、一般に冷静で寡黙な市民が多い北ドイツのベルリンと違って、南ドイツのミュンヘンの市民は、明るく情熱的な気質だといわれる。この年の2月に「ナチス(国民社会主義ドイツ労働者党)」を結成したアドルフ・ヒトラーAdolf Hitlerも、ミュンヘンを拠点にしていた。

1920年4月27日、30歳になったばかりのヒトラーは、ミュンヘンのビヤホール「ホーフブロイハウスHofbräuhaus」で1200人の聴衆を前にして、経済破綻した共和制ドイツを立て直すためには「天才的な独裁者が必要だ!」と、芝居がかった身振りを交えて叫んだ。ビヤホールの聴衆は、仕事帰りのサラリーマンや販売店員や学生であり、その4分の1は女性だったという。彼らは、政治集会というよりは、「おもしろい見世物」を楽しむ感覚でビヤホールに立ち寄っていた。

adolf-reich-commemorating-anniversary-nsdap-hofbrauhaus-2hofbauhaus-31920年の1年間だけで、ヒトラーは50回近く公開集会で演説している。8月13日のビヤホールの集会では、2000人の一般大衆を前にして、「なぜ我々は反ユダヤ主義なのか」を演説した。彼の演説は、2時間の間に58回も拍手と歓声で遮られたという記録がある。毎夜のようにビヤホールに立ち寄っていたパウリも、ヒトラーの演説を何度か聴いていたに違いない。(写真右は、1937年2月、ビヤホールでのパーティーで。自殺は1945年4月なので、絶頂期だったかもしれない 参照記事

 ユダヤの出自:ところで、この年にゾンマーフェルトの助手として赴任したパウル・エヴァルトという遠慮のない人物がいる。彼は、パウリと初めて会った際に「君はユダヤ人かね」と尋ねた。パウリが「違います。僕の父も母もカトリックです」と答えたところ、エヴァルトは「本当かな? 自分の顔を鏡でよく見てみろよ」と言った。

パウリは身長165㎝と小柄で、縮れた黒髪に茶色い瞳、肌の色は少し浅黒く、これらは典型的なユダヤ人の特徴である。夏季休暇にウィーンに帰省したパウリは、自分の出自を両親に問い質し、そこで初めて自分の祖父がユダヤ人であることを知って、計り知れないほどの衝撃を受けた。後にパウリは、この瞬間から「人生の万事が面倒なことになった」と述べている。

内心の傷を隠して、パウリは研究活動に没頭した。彼は、ニールス・ボーアの原子モデルでは、水素分子イオンの定常状態が説明できないことを立証し、その内容を博士論文としてまとめた。1921年7月、パウリは大学を3年間の飛び級で卒業すると同時に、21歳で博士号を取得した。

この年に『数理科学百科事典』が発行された。多くの項目の中でとくに注目を浴びたのが、パウリが執筆した237ページに及ぶ「相対性理論 theory of relativity」の解説論文である。

FireShot Capture 31 - Birth and chilその相対性理論を発見した大御所アルベルト・アインシュタインAlbert Einsteinは、「この考え抜かれた見事な解説論文を読むと、その著者が21歳だとはとても信じられない。根本的な理解から発想を広げる独創性、数学的に厳密な論理性、物理学全般に関するすばらしい洞察性、主題そのものに対する完全性、多彩な観点に対する批判性……、そのどれもが賞賛に値するとしか言いようがない」と絶賛した。

この解説論文は、この年に単行本「相対性理論」として発行された。第二次大戦後の1958年には英語版に翻訳されて、世界各国の標準的な教科書となった。

  「排他原理」と「パウリ効果」:1921年9月、パウリはゲッチンゲン大学でマックス・ボルンの助手となり、1922年9月からはコペンハーゲン大学でボーアの助手となった。この2年間に最先端の量子論を修得したパウリは、ハンブルク大学の物理学科に私講師として迎えられた。

1924年、パウリは「二つ以上の電子が同一の量子状態を占めることはない」という「排他原理」を数学的に厳密に立証した。この原理によって、原子内の電子が最も内側の殻に落ち込まない理由や、元素の周期表が成立する経緯が明らかになった。この難解な原理を「パウリの排他原理」と名付けたのは、ケンブリッジ大学のポール・ディラックだった。

さて、手先の不器用なパウリは、ミュンヘン大学時代から実験が苦手で、何度も実験器具を壊していた。ゲッチンゲン大学では、パウリが近付いただけで実験装置が壊れるという不可解な現象が何度か生じた。

ある日、ゲッチンゲン大学の物理学研究所で原因不明の爆発事故が起きた。慌てて皆でパウリがどこにいるのか探したところ、彼は学会出張中だった。ところが後に、爆発が起こった時刻、パウリの乗った列車がゲッチンゲン駅に停車していたことが判明したのである!

ハンブルク大学では、天文台の完成記念式典が開かれた。パウリは、自分が行くと何かが壊れるかもしれないからと遠慮したが、物理学科の教員全員が招待されたため、やむを得ず同行した。すると、パウリが天文台に入った瞬間、望遠鏡のカバーが落下して粉々に砕けたのである。この事件以来、パウリが接近すると実験装置や機器が破壊される現象は「パウリ効果」と名付けられた。

ハンブルク大学物理学科のオットー・シュテルン教授は、後に陽子の磁気モーメントの測定を行なって1943年にノーベル物理学賞を受賞する実験物理学者である。彼は、「パウリ効果」を本気で信じて怖れおののき、自分の実験室には絶対にパウリを入室させなかったという。

 酒と売春街:不吉な「パウリ効果」ばかりでなく、なぜかパウリには周囲を困惑あるいは不愉快にさせる一面があった。有名なのは彼の毒舌で、他者の発表や論文の間違いを徹底的に追及した。ある論文に対して「この論文は間違ってさえいない(その判断以前の低レベルだ)」と述べて、著者を深く傷つけたこともある。パウリの批判を「物理学の良心」と擁護したのは、ハイゼンベルクのような限られた抜群に優秀な研究者たちだけだった。

パウリは、次第に酒に溺れるようになった。当時の彼が書いた手紙には、次のように記されている。「僕には酒が必要だ。シャンパンとワインのボトルを空けた後、周囲の連中に酒を奢ると(酔っていなければ、他人に奢ることなど絶対にないが)、皆が僕を好きになってくれる。とくに周囲にいるのが女性だと嬉しいね」

さらに彼は、大学関係者の誰にも秘密にして、売春街に通うようになった。彼が深い関係を持った女性たちの中に、2歳年下の金髪女性がいた。パウリは、彼女がモルヒネの常用者であることを知って、即座に手を切った。ところがパウリは素性を隠していたにもかかわらず、彼女はなぜか彼の居場所を探し当てて、大学の研究室に訪ねてきた。金を無心するためである。パウリは激怒して彼女を追い返したが、内心では恐怖を覚えていた。

1927年の秋、パウリの父親ヴォルフガングが家を出るという事件が起きた。彼も息子と同じかそれ以上に女癖が悪かったが、聡明な妻のベルタは、夫がウィーン大学教授の体面を保てるように我慢を重ねてきた。ところがヴォルフガングは、今回は息子と同年齢の彫刻家マリア・ロットラーと恋に落ちて、完全にベルタを捨てて出て行ってしまったのである。悲嘆にくれたベルタは、11月15日に服毒自殺した。この事件も、パウリの精神を大きく傷付けたとみなされている。

 1年に満たない最初の結婚:1928年4月、28歳のパウリは、スイスのチューリッヒ工科大学理論物理学教授として招聘された。5月には、カトリック教会を脱退した。長年悩んだ末に、彼は自分がユダヤ人であることを受け入れたのである。

パウリの妹ヘルタは、ベルリンのマックス・ラインハルト演劇学校を卒業して、劇団に所属していた。imageshgfgパウリは、数年前に妹に紹介された22歳の女優(ベルリンのダンサー)ケーテ・デップナーBerlin dancer Käthe Deppnerと、出版社のパーティで偶然再会した。二人は情熱的な交際を開始して、cernpauli2_9-001929年12月に結婚した。ただし、彼らの結婚は衝動的すぎて、長続きするはずがないというのが周囲の評判だった。写真右1929年、パウリ29歳

事実、若いケーテは、ハンブルク大学化学科の若い研究者パウル・ゴルトフィンガーに恋して、家を出て行ってしまった。パウリとケーテは、結婚から1年もたたない1930年11月に離婚している。パウリは、「たとえば闘牛士のように太刀打ちできないような男ならばまだしも、どこにでもいるような二流の化学者に妻を盗られるとは……」と自嘲した。

「ニュートリノ」と「シンクロニシティ」:この年の12月、パウリは原子核の崩壊を数学的に緻密に解析して、未知の素粒子が存在するに違いないと結論付けた。彼の予測によれば、この素粒子は、質量は電子以下、スピンは2分の1、電荷はもたない。ローマ大学のエンリコ・フェルミは、この未知の素粒子を「ニュートリノ」と命名した。

パウリにとって、この素粒子は「人生が危機的状況にあった際に生まれた、とんでもない化け物」である。それから26年後の1956年、まさにパウリの予測通りの性質をもつ「ニュートリノ」が検出された。

1931年夏、パウリはカリフォルニア工科大学・シカゴ大学・ミシガン大学で講演を行なった。当時のアメリカでは「禁酒法」が施行されていたが、カナダに近いミシガンには「もぐり酒場」があった。そこで深酒したパウリは、階段を踏み外して肩の骨を折ってしまう。チューリッヒに戻ったパウリは、自分が「アルコール依存症」と「精神的な危機」に陥っていることを自覚した。

230117TakahashiShoichiro021932年1月、パウリは、著作を何冊か読んだことのある精神科医カール・ユング(Carl Gustav Jung 1875〜1961)を訪ねた。そこでパウリは、ユダヤの出自、父親の母親に対する裏切り、母親の自殺、自分の離婚、深酒と売春婦、周囲に対する不満、研究上の不安など、すべての苦悩をユングに語った。

FireShot Capture 29 - Wolfgang Pauli__ - htユングはパウリが「完全に自分を見失い理性を失う寸前」と診断して、精神科医エルナ・ローゼンバウム(Dr. Erna Rosenbaum 1897-1957年)を紹介した。パウリの症状には女医の方が適切だと判断したためである。彼女の治療のおかげで、パウリのアルコール依存症は改善され、精神状態は安定に向かった。左は、晩年のカール・ユング

1932年11月以降、57歳のユングと32歳のパウリは、毎週月曜日の午後に面談することになった。ユングは、パウリの見た1000以上の「夢」を分析して、彼の「無意識」を「元型夢」で解き明かした。もともと「数学」と「神秘主義」が自然現象の解明に必要不可欠だと考えていたパウリは、ユングの「集合的無意識」の理論に感銘を受けた。

image.imageformat.930.753931683  再婚とプリンストン高等研究所:1934年4月4日、パウリは1歳年下のフランカ・ベルトラムFranca Bertramと結婚した。彼女は政治家の専門秘書で、洗練された女性だった。パウリは、ようやく落ち着いて物理学に専念できるようになったが、その数年後に第二次世界大戦が勃発した。1940年5月、スイスがナチス・ドイツに包囲されると、パウリとフランカは命懸けで脱出し、8月24日にニューヨークに到着した。

20087311629286915-2008-09BRevCreaseFAパウリを誰よりも温かく迎えたのが、アインシュタインAlbert Einsteinである。彼は、パウリをプリンストン高等研究所教授に招聘されるように推薦し、共同研究を始めた。原爆開発が始まると、パウリはロスアラモス国立研究所に協力を申し出たが、ロバート・オッペンハイマー所長は丁重に断った。原爆に関わる精密機器が「パウリ効果」で破壊されることを恐れたためだといわれている。1945年のノーベル物理学賞は「排他原理の発見」によりパウリに授与されることが決まった。アインシュタインは、高等研究所で祝賀会を開催し、「パウリこそが私の後継者だ」と最高級の祝辞を述べた。

1946年、チューリッヒに戻ったパウリは、ユングと本格的な共同研究を始めた。晩年のパウリは、「物理学と心理学を融合」させなければならないと考えるようになっていた。とくにパウリが興味を抱いたのは、ユングの「シンクロニシティ(共時性)synchronicity」という概念である。ユングは、ある瞬間に世界で起こる出来事は、すべてが巨大な「集合的無意識」で繋がっていて、それが「共時性」を生じさせるとみなしていた。

実例を挙げよう。ある日、ユングが患者の精神分析で「黄金虫」の夢の話を聞いていた。その瞬間、窓ガラスに何かがぶつかる音がしたので、ユングが窓を開けると、まさにそこに「黄金虫」がいたのである。ユングにとって、この現象は単なる「偶然の一致」ではなく、「共時性」を示す根拠だということになる。

パウリも、量子論的にすべてがネットワークで結びついている世界を想定し、しかもミクロの世界では粒子の因果関係を確率的にしか説明できないことから、「非因果的連関」に関する理論が必要だと考えていた。二人は、共同研究の成果を『自然現象と心の構造――非因果的連関の原理』に共著でまとめ、1952年に発表した。この書籍は、世界中で大きな反響を呼んだ。

  パウリを生涯苦しめた数字「137」:さて、パウリがミュンヘン大学に入学したころから常に悩まされてきた「137」という数字がある。彼の師ゾンマーフェルトは、ボーアの量子論にアインシュタインの相対性理論を応用して、原子スペクトル線の「微細構造定数」を見出した。これは、ミクロとマクロの世界像を繋ぐ最も重要な物理定数の一つである。

この定数は、電荷・光速度・プランク定数・円周率の4つの定数によって構成されるが、非常に奇妙な特徴がある。というのは、これらの4つの定数が持つ「次元数」が互いに打ち消し合うため、「微細構造定数」そのものは「無次元数」になるということである。

たとえば、この式に表れる光速度をメートル法で表すかヤード法で表すかで数値は異なるが「微細構造定数」そのものは不変である。仮に宇宙に知的生命体が存在して、地球人とまったく異なる単位系を用いて「微細構造定数」を発見したとしても、その値は地球上と同様に「137分の1」という物理定数になる。

indexjhgさて、1958年12月5日、いつものように講義していたパウリは、突然激しい腹痛に襲われた。彼はチューリッヒ赤十字病院に救急搬送され、開腹手術を受けた結果,すでに末期の膵臓癌に罹っていることが判明した。目を覚ましたパウリは、自分の病室が「137号室」であることを知った。「137号室。私がこの病室を生きて出ることはない」と彼は妻に言った。その予測通り、58歳のパウリは、12月15日に逝去した。参照記事 参照記事 参照記事 参照記事   参照記事  参考:「ヒトラーとは何者か?」15 政治家への道(4)ナチ党(国家社会主義ドイツ労働者党)発足ヴォルフガング・パウリはオーストリア・スイスの理論物理学者であり、「除外原則」の発見でノーベル物理学賞を受賞しました。映像紹介記事:、、、何よりも論理的解析が求められる物理学に於いて、パウリがユングと知り合った事で心の世界や偶然、神秘主義にまで論理的答えの糸口を求めていたとは驚きだ。ユングの言うシンクロニシティを幾度も経験している筆者には興味深い。

上の記事の趣旨とは関係ないが、ヒトラーが精力的に大衆に向け演説を繰り返していた事を思い出した。彼の演説をよく聞くと分かるが、意外と彼の演説は明快で、かつ非常に丁寧な言い回しが多く、内容は別にして政治家は聞いてみるべきだ。もっとも、その指南役はゲッペルス宣伝相とも言われているが、それと比較すると、トランプ氏はぶっきらぼうで結論を急ぎ、説得力に欠け演説が下手くそである。そのドイツで、移民の事件を機に、また右翼が躍進している。参考:ドイツで《ナチスそっくり》の極右政党、ここへきて支持を集める理由


nappi11 at 00:01│Comments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック
2024年08月21日  国内問題 政治 個人
8604c8f8 自民党は総裁選挙管理委員会を開き、岸田総理大臣の後任を選ぶ総裁選の日程を2024年9月12日に告示、9月27日に投開票とすることを決めた。  選挙期間は15日間となり、今の規程が設けられてから最も長くなる。  党内からは信頼回復に向け、しっかりした論戦を展開するには選挙期間を長く取るべきだとの声が上がっている。  また、岸田総理は9月22日から25日ごろまでアメリカのニューヨークを訪れ、国連総会での一般討論演説などを行う方向で調整に入っており、外交日程に配慮し、外遊が終わるまでは次の総裁を決めない日程とした。、、、、世界が大きな国際問題を抱える中、首脳会談が設けられることが多く、その中で日本も重要な位置に居る事が多くなった。そんな中で、派閥維持にこだわる二階と麻生のよれよれコンビが、岸田首相を辞任に追い込んだと言うのが、筆者個人の見方。重要な国際問題が多い中、もう一期岸田政権が続いた方が良かったと思っている。筆者は、どうしても外交重視で見てしまう。逮捕者まで出した自民が生残るには、無派閥から選出が良いかと、、。
nappi11 at 00:01│Comments(2) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック