FireShot Capture 386 - XユーザーのAnton Geras_ -FireShot Capture 387 - XユーザーのAntonロシアはウクライナに対する全面戦争で1万2000両近くもの装甲戦闘車両を失い、国内での新しい車両の生産は需要に追いつかず、これまで補充で頼りにしてきた冷戦時代の古い車両の在庫も昨年末には乏しくなった。とすると、ウクライナにいるロシア兵が馬に乗り始めるのは必然だったのかもしれない。
それはついに起こった。今週、ソーシャルメディアに出回った動画には、ロシア兵2人が馬に乗ってウクライナ国内のどこかの泥道を駆ける様子が映っている。兵士のひとりは「どうだい、ウクライナで馬に乗ってるよ」と話している。右の写真では「従順な馬だ」と馬をほめる会話をしている。
ロシア軍の機械化部隊は年におよそ4000両のペースで装甲戦闘車両を失っている。ロシアの工場での新規生産分ではとても補いきれない損失だ。ロシアによる装甲戦闘車両の年産数は現在、装軌式のBMP-3歩兵戦闘車が200両、T-90M戦車が90両、装輪式のBTR-82装甲兵員輸送車を含むその他が数百両程度とみられる。
GettyImages-1243164354ロシア軍では非常に古い装甲車両ですらますます貴重になっているが、従来の歩兵装甲車は無人機攻撃に弱く「現代の戦闘の現実に適合していない」と言われ、それが人的損害の拡大につながっているとも指摘される。FireShot Webpage Screens前線ではこうした車両は「燃えて兵士を死なせるだけのゴミ」と酷評されている。クルスクでの映像 
だからといってロシアが戦争に負けつつあるわけではない。ロシアの戦力造成に関する問題は深刻だが、人手不足のウクライナはもっと深刻だ。参照記事 参考:車両保管施設が続々と空になるロシア、70年前の装甲車すら貴重に:右のBTR-50は、70年前の歩兵戦闘車
、、、、乗馬兵士が騎兵で有名なコサックの系統かと思ったが、映像で見ればモンゴル系の顔立ちで、恐らくシベリアからの兵士だろう。無事シベリアへ戻れるのだろうか、、。英文記事では、彼らはサハ共和国Republic of Sakha出身で、馬は盗んだ物だとある。
873c746e日露戦争当時、当時ロシアだったウクライナのコサック騎兵が前線に動員され、203高地などで日本軍と戦った記録が在る。そもそも明治時代に北海道に入植した屯田兵は、平時は農業や林業で開拓に励み、有事には兵士として戦うコサック兵を手本に日本軍が導入したものだ。札幌や近郊の篠路に居た屯田兵は、後に旭川の第7師団に統合され、終戦まで中国北部の激戦地で多くの戦死者を出し、残存兵の多くがシベリアや、遠くはウクライナで抑留され、過酷な労役で多くが帰国を果たせぬまま異国で土になった。地図は、抑留地(強制収容所:ラーゲリ)の位置地図と捕虜だった木内信夫氏の移動経路(青い線) 過去ブログ:2013年5月「カチューシャ」の思い出と日本との関係:2009年6月ウズベキスタンと日本兵 あるシベリア抑留


nappi11 at 00:02│Comments(1) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

コメント

1. Posted by 甲東   2025年02月08日 07:20
コサックでは無く、モンゴル軍団ですね。
当初のコサックは今のウ東部に発生した野盜集団の様なものでした。反体制という政治色も多少は持っていた。これをロシア帝国が取り入れ、正に屯田兵の集団として各地に設立し、帝国拡大の手先として利用しました。文句言いの就職先でもあった。
エリチン時代になり、愛国心強化策の一つとしてコサックの復活が挙がり、2002年の国勢調査(当然、ウは含まず)からコサックかどうかの意思表示が出来る様になったと。コサック大好き人間達は、少なくとも150万人はいるだろうと思っていたが、全国で約14万人だったと。2010年の調査では約65000人に減ったらしい。ほとんどは、今のウの東隣辺りと。民族では無く、屯田兵ですから。
今のウでは、大切な祖先の一つとか。反体制が気に入っているのでしょう。

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