

レニングラード市議会の食糧供給委員会の女性議長マリーナ・サーリエ(Marina Salye):右 は肉とジャガイモをレニングラードに輸入する契約の交渉をするため、1991年5月にベルリンを訪れた。しかし、交渉は(市議会ではなく)市当局の代表者で、KGBの東ドイツでの潜入任務から戻り、レニングラードの新市長アナトリー・ソブチャク のもとで国際関係担当の副官として働いていたウラジーミル・プーチンとレニングラードの商社〈コンチネント〉間ですでに完了していた。その後、彼女が荷物を追跡すると、ドイツからの品物はレニングラードではなくモスクワに送られていた。
どうにもキナ臭い動きをしたプーチンだが、もちろんこれは一側面にすぎない。以降、サーリエ女史はプーチンを徹底的にマークし調べ上げたのだが、そこで出てきたのはプーチン周辺で繰り返されていた謎の取引であり、その複雑さは到底ここに書き出しきれるものではないが、結果として同書はこう結論付けている。
《つまりプーチンが作り出そうとしたのは、資産は豊富だが市場インフラに乏しいロシア経済から利益を生み出すチャンスそのものだった。》
調査を進めたサーリエ女史はプーチンを汚職で告発する She first accused Putin of corruptionのだが、ここで潰れていたら、もちろん今のプーチンはいない。“工作員”たるプーチンは策謀に加えあらゆる人脈を駆使し、結局“スキャンダル”を無きものにしてしまったのだ。
ちなみにこの時、法的バックボーンを担った弁護士というのがドミートリー・メドヴェージェフ(メドベージェフ:Dmitrii Medvedev):左。のちのロシアの首相、大統領である。そしてプーチンをギリギリまで追い詰めたサーリエ女史は一線を退き、プスコフ地方の田舎町で隠居生活を送った。しかし、2011~12年、議会および(プーチン)大統領選挙に対するデモが起きると、サーリエは活動を再開し、サンクトペテルブルクの反政府グループの主要メンバーになった。だが、2012年3月、彼女は突然の心臓発作で死亡。享年77だった。死の数週間前、彼女は再びプーチンの悪行を裁くよう求め、プーチンがクレムリンに戻ることを決めたことに激怒する新世代の民主化運動家たちに向けて訴えていた。
このプーチンの「食糧スキャンダル」事件は今のプーチンの戦略を知る上で、詳しく知っておいてもらいたい事件だ。このサンクトペテルブルクで確立したいくつかの“手法”は、やがて時のエリツィン政権の知るところとなり、大抜擢。1996年にモスクワに赴任してからわずか3年、1999年12月エリツィンはプーチンを大統領代行に指名。今に至るのである。参照記事 英文記事 英文記事
、、、以上は、2022年12月北京で、プーチンからの親書を携(たづさ)え習近平国家と会談するなど気になるメドヴェージェフとプーチンとの接点を筆者が追っていて出てきた事実で、プーチンが亡くなったとして、其の過去や知られたくない事実を隠ぺいするためにもメドヴェージェフが新政権で浮上するかもしれない。プーチンのこれまでの裏工作、人脈を熟知していると思われるから、、。過去ブログ:2023年2月プーチン、プリゴジンを支える保守強硬派コワルチュクとは?:1月プーチン後の人物は? ある考察:
2022年2月にウクライナへの侵攻を開始してからというもの、ロシアではすでに39人の政府関係者や大物とされる人物が死亡しており、3月だけでも2人が謎の死を遂げた。連続するこうした「不審な死」については、ウラジーミル・プーチン大統領が問題のある人物を暗殺しているのではないか、との可能性が指摘されている。参照記事