04丁度100年前の1922年10月、イタリア国民の不満を原動力として、ナショナリズム、ポピュリズム、暴力を混ぜ合わせて展開される、ファシズムという政治運動が、この国で声を上げた。10月24日、ナポリの党大会で演説したベニート・ムッソリーニ:Benito Mussoliniはこう述べている。「われわれの計画はシンプルだ。われわれはイタリアの支配を望む」。彼は支持者たちに、もし政府が辞任しないのであればローマに進軍しなければならないと訴え、4日後、ムッソリーニはこれを実行に移し、政権の座を獲得した。

m10cm10bFireShot Webpage Screenshot #2193 - 'Benito1883年7月29日、ベニート・アミルカレ・アンドレーア・ムッソリーニ(Benito Amilcare Andrea Mussolini、1883年7月29日 - 1945年4月28日)は南イタリアの小さな街で、鍛冶屋の父と教師の母の間に生まれ、社会主義者の父親からナショナリズムと政治的ヒロイズムの話を聞かされて育った。
270px-Benito_Mussolini_1917青年になった彼はスイスへ渡り、社会主義者を公言するようになる。やがてイタリアに戻ると、社会主義ジャーナリストとしての活動を開始した。参照記事
1914年に第一次世界大戦が勃発し、欧州各地で戦闘が始まった際、イタリアは当初中立を保っていたがイタリアは1915年に参戦することになる。ムッソリーニは、1915年から1917年にかけて志願して従軍し:写真右、1917年2月23日、塹壕内で起きた榴散弾の爆発事故で重傷を負い、全身には摘出できない40の砲弾の破片が残り、後年、後遺症の神経痛に悩まされることになった。その後、独自の政治運動「革命行動ファッシ」を立ち上げ、戦争への参加を呼びかけた。

第一次大戦後、多くのイタリア人がベルサイユ条約に対する不満を抱えていた。領土の分割を定めたこの条約では、イタリアが軽視され、ごくわずかな取り分しか割り当てられなかったと、国民は感じていた。fasci-1ムッソリーニは「革命行動ファッシ」をもとに、1919年3月23日、ミラノのサン セポルクロ広場にある商工同盟サークルのホールで、準軍事組織「イタリア戦闘ファッシ( 戦闘ファッシ:Fasci di combattimento)」を立ち上げた:写真右。ムッソリーニの狙いは、国民の不満を糧として政治的成功を収めることだった。弱小政治結社ながら民兵を率いるムッソリーニは「イル・ドゥーチェ:Il Duce(指導者)」と呼ばれ、国民に対して強い影響力を発揮し、個人的な魅力と暴力的だが説得力のある弁舌で人々を魅了していった。
1921年、ムッソリーニは国会で議席を獲得したのみならず、イタリアの首相ジョヴァンニ・ジョリッティから連立政権への参加を要請された。ジョリッティは、政治権力の一端を分け与えれば、ムッソリーニが黒シャツ隊をおとなしくさせるだろうと考えたのだ。 しかし、ムッソリーニの狙いは、第一次大戦で勇猛果敢だったイタリア突撃兵(アルディーティ)の黒シャツを制服とした民兵「黒シャツ隊」を利用して、絶対的な支配権を握ることだった。(ドイツのナチ党ヒトラーが、突撃隊SAを義勇兵から組織し、褐色の制服を採用したのは、この黒シャツ隊を模倣している。)
Marcia-su-Roma1921年末、ムッソリーニは「イタリア戦闘ファッシ」を「国家ファシスト党: Partito Nazionale Fascista PNF」に改め、1920年には約3万人だった運動を、32万人の党員を擁する政党へと発展させた。彼が国家に対して事実上の宣戦布告を行っていたにもかかわらず、イタリア政府は党を解散させることができず、北イタリアの大部分をファシスト党が占拠するのを傍観していた。
ph_thumb1922年10月25日、ナポリで開かれた党大会の翌日、ムッソリーニは4人の党幹部に命じて、党員を率いて首都ローマへと進軍させた。当時の首相ルイージ・ファクタが戒厳令を発令しようとしたものの、ムッソリーニに任せることで安定を図ろうと考えた国王は、ファシスト鎮圧にあたるイタリア軍を動員するための命令書への署名を拒んだ。世界大戦と国内の内戦状態に疲弊した国王は、ムッソリーニが秩序をもたらしてくれるだろうと期待していた。彼は、1922年には、39歳にしてイタリア政権を握り、3年足らずのうちに、この男は完全なる独裁者となった。ムッソリーニ内閣は、イタリア歴代史上最長政権で、1922年10月31日から1943年7月25日まで7572日続いた。
FireShot Webpage Screenshot #2191 - 'The Personaその間に彼はイタリアを枢軸国として第二次世界大戦に参戦させ、破竹の勢いのアドルフ・ヒトラーと同盟を結んだが、これによって母国に大いなる破壊をもたらした。彼はイタリアを枢軸国として第二次世界大戦に参戦させ、破竹の勢いのアドルフ・ヒトラーと同盟を結んだが、これによって母国に大いなる破壊をもたらした。
国王ヴィットーリオ=エマヌエーレ3世は、ムッソリーニの側近を説得して彼に敵対するよう仕向け、1943年7月25日、ついにムッソリーニを権力のFireShot Webpage Screenshot #2192 - '北の国か座から引きずり降ろし、彼の身柄を拘束することに成功したが、ムッソリーニは、イタリア中部の山頂のホテルから、ドイツ軍のグライダーによる劇的な脱獄の後、ドイツ占領下のイタリアに逃亡し、1943年9月、ヒトラーからの圧力下において短命の傀儡国家イタリア社会共和国Repubblica Sociale Italiana、RSI:首都ローマ)をイタリアに設立した。
1945年4月28日、連合国の勝利が近づく中、ムッソリーニと愛人はドイツ軍のトラックで変装して国外逃亡を図るが、共産主義者のパルチザンに見つかり、その後射殺され、その遺体はミラノのロレート広場Piazzale Loretoに捨てられ、共に銃殺された愛人クララ ・ペタッチClara Petacci(1912~45年)や処刑されたRSI幹部らと共に逆さ吊りにされた。 参照記事 英文記事 ムッソリーニの最後youtube映像 別映像 カラー映像で見るドイツ帝国 ムッソリーニ最期の五日間 過去ブログ:2010年2月イタリー人のマネ好きにはこっちが脱帽!
c0a74beb4b3bc6562f1d72129553b31f85ada32cb2c2a219bfc4da5a9dd3336be71dcac42219944c、、、イタリア帝国Impero Italianoを夢見たムッソリーニとロシア帝国を今に描くプーチンが重なって見える。彼についての記述で『「わたしの墓には、こういう墓碑名をつけてほしい」と、少しのユーモアも自制心もなく、「地上に現れた最も知性のある生物、ここに横たわる」と……。 これは明らかに、誇大妄想狂のしるしである。 事実、ムソリーニは多くの偉大な才能をもっていたにもかかわらず、たえず不安定で、ずるく、体質的に疑いぶかく、病理学的には利己主義であった。そのうえ大言壮語を怒鳴りちらすのとは裏腹に、じつは憶病で、優柔不断であることを、長いあいだ隠していたのであった。参照記事 参照記事』、、、生涯を通じて、気が短く、暴力的でサディスト、野心家であった。但し、英、仏、独、伊の4か国語を操る話術と交渉は巧妙で、ヒトラーも一目置いていたと言う。決して尊敬に値しない人物だが、歴史は時として、こんな人物を登場させる。まるで人類の放漫さに罰でも与えるかのように、、。写真下は、1937年9月29日,ヒトラー総統:左端、ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥:右端とムッソリーニ首相:中央。この時すでにエチオピア帝国を征服(1936年)してイタリア帝国を復活させ、イタリア国王から統帥権を得てムッソリーニ、王政を維持する立憲君主国、イタリア共和国の誕生に得意満面のころである。

nappi11 at 00:01│Comments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

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