img1519-01img1519-021522年の9月6日は、スペインの冒険家「フェルディナント・マゼラン:ferdinand magellan(1480-1521)」一行が人類初の世界一周を達成し、約3年後スペインに帰還した日です。ポルトガル生まれの冒険家マゼランは、亡命先のスペインで世界周航計画を実行に移す。そして 1519 年、5隻265 人の探検隊を組織したマゼランはスペインを出航し、西回りの航路に入る。1520年10月から11月にかけて 南米最南端のマゼラン海峡を通り抜けた一行は、1522 年9月にスペインに戻ってくる。しかし、マゼラン自身は 1521 年にフィリピンのハイチで現地人によって殺され、もともと5隻の船が海に出た中で、無事に戻ったのはたった1隻18 人だけという過酷な航海であった。参照記事
マゼランルート-4-768x513gひゅ640px-MactanShrinePainting2太平洋のど真ん中を、漂流に近い形で何か月もさまよった後、たどり着いたフィリピンの民は幸いにも結構フレンドリーで、マゼランたちは食糧を調達することができただけでなく、ついでにキリスト教の布教活動も進めることができた。特にセブ島Cebu islandでは、島の王と親しくなったために布教もうまくいき、多くのフィリピン人たちを改宗させることに成功している。1487447これに断固として抵抗したのが、マクタン島Mactan Islandのラプ=ラプLap-Lapという王:右だった。言って分からないのなら、とマゼランはマクタン島を攻めに行くが、このときマゼラン側の兵士49人に対して、マクタン島民は1500人もの大軍で迎え撃ったと言われている。1521年4月27日にマゼランがフィリピンで戦死してしまい、実際に世界一周を成し遂げたのは彼の船に乗っていた別の船員たちということになる。フィリピンはその後間もなくスペイン領とされますが、外敵の侵攻に勇敢に立ち向かったラプラプは今に至ってもフィリピンの心の英雄とされています。参照記事 参照記事 世界一周航海図
02しかし、マゼランが今のフィリピンで殺害され、船長として生存者たちをまとめ、長い故郷への旅路を率いたのはフアン・セバスティアン・エルカーノ Juan Sebastian Elcanoという名のバスク人だった:左、切手の男性。傷ついたビクトリア号を操りながら、インド洋を渡り、アフリカの喜望峰を回ってスペインに戻ることで、エルカーノは知られている限り世界初となる世界一周航海を成し遂げた。それは、飢餓、壊血病、殺人、反乱に苦しめられた、7万キロを超える、3年と7日の船旅だった。当時欧州で最も強大な力を持つスペイン国王兼神聖ローマ皇帝のカール5世は、英雄的な航海を成し遂げたエルカーノを称賛し、彼に褒賞を与えた。1525年、彼は再びモルッカ諸島への遠征に参加し、その1年後、今度は香料諸島(スパイス諸島)にたどり着くことなく壊血病で命を落とした。簡易な葬儀が行われ、重石がわりの砲弾を付けた埋葬布にくるまれた彼の遺体は、太平洋に沈められた。参照記事

nappi11 at 00:01│Comments(2) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

コメント

1. Posted by 甲東   2022年09月06日 05:18
マゼランの船も最新式のキャラック船(スペインではナオ船)だったとか。操縦性の良い(無風でも走れる)地中海の船と、大型の北欧船を合体させた物とか。
16世紀中頃になると、風車を利用した製材能力が非常に高く、かつ高速のオランダの船がヨーロッパを席巻し出すとか。
2. Posted by 甲東   2022年09月07日 05:20
勝手な記事を。
インダス文明は前30世紀頃に始まったとか。不思議なことに前15世紀頃になると、とんと情報が途絶えてしまうそうです。誰もいなくなった感じ。特にインダス川下流地方。アレキサンダー大王の頃になって、ようやく少しずつまた情報が出始める。人々の生活が始まった感じ。洪水等々いろんな説があるが定説は無い。
今回のパキの洪水はその答えを与えてくれている様な。大変貴重な事象です。
長雨だけで無く、ヒマラヤ方面にある多くの氷河が溶けて流れ出したことが原因とか。三重大の先生が、偏西風の蛇行 によりヒマラヤ周辺に暖かい空気が滞留し、多くの氷河が溶けるほど地上の気温が高くなった、のだろうと。
今はそれなりに援助も出来るが、大昔なら生き残った人々は離散するのでしょう。多くがガンジス川方面に行ったか・・・

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