船が眠る場所は、この物語が残したミステリーとして語り継がれることになった。そして今、謎は解けた。エンデュアランス号を捜索していた研究チームが、南極大陸に接するウェッデル海の海底で沈没船を発見したのだ。全長44mの船「エンデュアランス号」は、2022年3月5日、水深3000mの海底に潜った自律型水中ロボットが、エンデュアランス号の最初の画像を送信してきた。カメラが船の甲板の上を滑るように進むと、100年前のロープ、道具、舷窓、手すり、さらにはマストや舵までもが、ほぼ当時のままの状態で映し出された。保存状態が良かったのは、現場の水温が低く、光が当たらず、水中の酸素が少なかったおかげだ。
「私は20代半ばから難破船を捜していますが、これほどのものを見つけたことはありませんでした。何もかも、ボルトの穴まで見えるのです」。1カ月以上にわたる捜索を終えて南アフリカ、ケープタウンへ帰る途上、69歳の海洋考古学者メンスン・バウンド氏は衛星電話を通じてこう語ってくれた。65人の隊員からなる捜索チーム「エンデュアランス22」を率いるバウンド氏は、自律型水中ロボットから送られてきた最初の画像を見たときから、これがエンデュアランス号であることを確信していたという。
決定的な証拠は、すぐに見つかった。船尾をクローズアップすると、北極星の印の上に「Endurance」という真ちゅう製の文字が光っているのが見えたのだ。「目玉が飛び出るほど驚きました」とバウンド氏は言う。「ワームホールを通って過去へと転がり落ちるような瞬間でした。首筋にシャクルトンの息づかいを感じました」
エンデュアランス号は、シャクルトンの「帝国南極横断探検隊」という壮大な計画の探検船だった。英国政府と民間の篤志家の支援を受け、当時の海軍大臣だったウィンストン・チャーチルにも支持されたこの計画は、船で南極大陸まで探検チームを運び、上陸した探検チームが南極点経由で大陸を陸路横断するというものだった。エンデュアランス号は、全長44m、3本マストの帆船で、その船体は厚さ75cmの頑丈なオーク材でできていた。
船は第一次世界大戦が勃発した直後の1914年12月5日に南大西洋のサウスジョージア島の捕鯨基地からから出航した。ヨーロッパから遠く離れた海でも、戦争は身近にあった。エンデュアランス号がウェッデル海に入ったとき、その北方では英国とドイツの海軍がフォークランド沖海戦を繰り広げていたのだ。
航海は最初のうちは順調だったが、1915年に南極の冬が近づくと、1915年1月15日、船は海氷の中に閉じ込められてしまった。
1915年2月14日と15日、シャクルトンらはエンデュアランス号を氷から出そうと試みたが、船はどうにもこうにも動かなかった。シャクルトンはこのとき、「氷は、いちど手に入れたものは手放さない」と言ったという。シャクルトンは10月26日火曜日に、「午後7時、非常に強い圧力がかかり、船にねじれが生じた」と記している。「ブリッジから見ると、船が巨大な圧力で弓のように曲がっているのがわかる」、、右はエンデュアランス号が最初に氷に閉じ込められてから約10カ月後、沈みゆく船と探検隊の犬たち。
10月27日、乗組員は道具や機器や食料を運び出し、流氷の上にキャンプを張った。
それから数週間後の11月21日、エンデュアランス号はとうとう沈没した。乗組員の1人は、「夜、テントで横になっていると、ボスが『お前たち、船が沈むぞ!』と叫ぶのが聞こえた」と記している:右下。
シャクルトンはエンデュアランス号の乗組員をエレファント島で待たせ、ほかの5人の乗組員を連れて、1916年4月9日、4週間分の食料だけ載せて1300km離れたサウスジョージア島の捕鯨基地まで助けを求めに救命ボートで出発した:左。同年5月20日に到着時の彼は、かつての面影がないほどやせ衰えていた:写真右。参照記事と写真など 英文記事
その後、エレファント島に残っていた乗組員は、派遣された船に救助されて南米チリに到着し、彼ら全員の驚くべき旅は、ついに1916年8月末に終わった。エンデュランスが水中の墓に沈んだ場所から、およそ1,333kmの旅路だった。マイナス37℃の極寒と食糧不足に22ヶ月間晒されたにもかかわらず、シャクルトンの的確な指揮もあり、探検隊28人は全員生還した。 参考記事:サバイバーズ:南極探検に命を懸けた男、アーネスト・シャクルトンの記録写真