40356b73419941be94e89464c00cbacc日本地図学会の専門部会は2021年5月18日、江戸後期に伊能忠敬(1745~1818年)と測量隊が作製した手描きの「大日本沿海輿地全図」のうち、列島を3枚に収めた「小図(432,000分の1)」の副本(控え)が新たに見つかったと発表した。2021年は、伊能忠敬が地図を完成させてから、ちょうど200年目にあたる。参照記事
9学会によると、徳川幕府に提出した伊能図の正本は明治期に全て焼失。今回見つかった地図は、伊能らが1821年に幕府に提出した最終版の小図の副本全3枚ぞろいで、2020年6月に開館した福岡県北九州市の「ゼンリンミュージアム」に所有者から相談があり、寄贈されたということです。現存が確認されたのは、2002年の東京国立博物館所蔵図(国重要文化財)以来2例目という。保存状態も良好で色彩が美麗に残る重文級の発見。研究進展も期待される。

Ino_Tadataka_Statue_at_Tomioka_Hachiman-gu_01img_d1a2a1968a19f8c87a78b5bba41fc9f929564伊能忠敬は55歳(1800年)から17年かけて、江戸時代に地球一周に相当する、およそ3万5,000km、4,000万歩を歩き、全国を実測して、日本地図を初めて作成した。伊能図は縮尺が違う大図(全214図:縮尺36,000分の1)中図(全8図:216,000分の1)小図(前3図:432,000分の1)の3種あり、忠敬没後の1821年に完成した。
小図は縮尺43万2000分の1。副本は測量隊の控えなどとして、正本と並行して作製された。今回の副本は北海道、東日本、西日本を横約1・6メートル、縦1・5~2・5メートルの3枚用紙に分けて描き「実測輿地図(じっそくよちず)」と題されていた。虫食いや補修はあるが海岸線や測量線、1万3000余の地名が明瞭に読み取れる。実は彼の偉業を支えたのは妻エイ(栄)で、彼女は夫が手紙で知らせる実測データを江戸の自宅(深川黒江町)で地図に起こしていたという。右は「伊能小図」の富士山付近

9伊能忠敬4-2伊能忠敬は下総佐原(しもうささわら、現千葉県香取市)の商人でしたが、隠居後の50歳で江戸に出て、天文学や暦学などを学びました。55歳から17年間、10次にわたって全国の沿岸部と主な街道を測量隊を引き連れ歩いたのです。死後3年たった1821年、弟子たちが「大日本沿海輿地(よち)全図」(伊能図)と呼ばれる実測図を完成させました。映像:伊能図の完成まで
 default1828年、オランダ商館のドイツ人医師、シーボルト伊能図を持ち帰ろうとしたため、地図を渡した役人が捕らえられ、獄死する「シーボルト事件」が起こりました。
伊能忠敬-1鎖国中の日本にとって海岸線が精巧に描かれた伊能図は国防上も重要で、幕末の1867年に幕府が「官板実測日本地図」を発行するまでは「秘図」だったとされています。参照記事 参照記事 参照記事 参照記事 参照記事 参考:伊能忠敬の夢:地球の大きさ 参考:伊能忠敬、驚きの測量法。〝交会法〞とは?

nappi11 at 00:40│Comments(1) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

コメント

1. Posted by POPPO   2021年05月20日 01:05
昔は国の地図なんて国家機密の最たるもの。今では宇宙からの撮影で地図作りたい放題。支那畜なんぞは占領予定の尖閣諸島の地図まで作っていきがっている。w
シーボルト先生の禁制を破る犯罪行為だか、日本人の関係者や弟子だけ犠牲になったのは問題だろうと、私は思う。

更にシーボルト先生、膨大な日本の植物誌と生きた植物を持ち帰ってその標本をライデン大学に残し、その後交配を繰り返した植物研究者がユリの生花をオランダ有数の輸出品に育てたとか。
せこい某半島の人々なら膨大なライセンス料を稼げたと騒ぐこと必至と、私は断定したい。w

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