「論語"The Analects of Confucius"」に「有朋自遠方来。不亦楽乎。:朋有り、遠方より来たる。亦た楽しからずや。(友人が珍しくも遠方から訪ねてきてくれるのは、こんなうれしいことはない。)」と有る。一節には、子曰。 「學而時習之、不亦説乎。 有朋自遠方來、不亦樂乎。」(孔子曰く、 「学びて時に之を習ふ、亦(また)説(よろこ)ばしからずや。朋有り遠方より来たる、亦楽しからずや。」:現代語訳:習ったことを機会があるごとに復習し身につけていくことは、なんと喜ばしいことでしょうか。 友人が遠方からわざわざ私のために訪ねてきてくれることは、なんと嬉しいことでしょうか。とある。
「友来たる」の前後を含む文は、漢文:子曰、學而時習之、不亦説乎、有朋自遠方来、不亦楽乎、人不知而不慍、不亦君子乎。書き下し文:子曰(い)わく、学びて時にこれを習う、亦(また)説(よろこ)ばしからずや。朋(とも)有りて遠方より来たる、亦楽しからずや。人知らずして慍(うら)みず、亦君子ならずや。英訳文:Confucius said, "To learn and to review those you learned are pleasure.(別訳:To learn and practice what learned time and again is preasure) To see a friend from far is a joy. Not to have a grudge even if you are not appreciated by others. It is gentlemanly."。現代語訳:孔子がおっしゃいました、「学んだことを時に復習するのはより理解が深まり楽しい事だ。友人が遠くから訪ねてくれて学問について話合うのは喜ばしい事だ。他人に理解されなくとも気にしないと言うのはとても立派な事だ。」という解釈も有る。、、孔子の言う「學」について筆者は、現代の体系的学問ではなく、互いが知り得た新たな事象や個々の考えを指していると解釈している。その中には遠い異国の文化や変化なども含んだだろう。遠くから来た友と、そんな話をするの今も昔も楽しいことだ。
一昨年フィンランドから来て数十年ぶりの再会をしたヒデさんが今年も来てくれて、ニセコ、ルスツでスキーを楽しんで2019年3月23日に我が家に到着。27日の夕方新千歳まで送り、横浜へ戻った。日本には5月まで居る予定とのこと。

我が家に滞在中は、中庭のキジを見たりキツネを見たり、市内を見物したりしたが、天気は雪で余り良くなかった。その分、家の中で昔話に花を咲かせた。昔と変わらず細身の体だが、毎日数キロを歩くのを日課しているとかで非常に元気で、滞在中も付近の散歩を欠かさなかった。写真は、新千歳飛行場で別れた際の写真で、やがてここの国際飛行場にフィンエアーの直行便が離着陸する。車で帰宅すると丁度キツネの餌の時間で、中庭の石の上で丸くなって待っていた。これも亦楽しからずや である。朝起きると中庭の木の中にキジが居るか確かめる。キジ達に中庭は仮の宿で、やがて古巣に戻るだろうが、できれば何時までも居てほしい。友とは別れたが「また会おうな」という別れだった。 過去ブログ:2019年1月追記:フィンエアー ヘルシンキが欧州のハブに?>千歳就航決定 2017年9月大型台風接近中に40年来の旧友が北欧から、、。 2008年12月儒教社会主義をめざす中国?


江戸時代に於いては富裕層の農民でさえ「四書五経」を自由に引用し、さらに論語などを完全に暗記していたと渋沢栄一氏も「論語講義」に父を例に記している。
親子の断絶も、世代間の対立も、共通の規範・教養が有れば、問題なく理解しあえて、親の忠告も子供に素直に受け入れられるものだろう。
全共闘の左巻き全盛世代と今の若い衆の対話が成立しないのは、江戸時代に比べて規範や教養の学習が退化したのかもしれないと、私は推測した。w