19世紀の帝国主義の時代、中央アジアから中東にかけてはイギリスとロシアが勢力を競う土地でした。その結果、ガージャール朝イランもそれぞれと不平等条
約を結ばざるを得
ず、1908年にはイランで初めての油田生産が、イギリスのアングロ・ペルシアン石油会社(Anglo-Persian Oil Company)によって開始された。その後、1925年に成立したパフラヴィー朝のもと、イランは共産主義のソ連への警戒感を強め、イギリスとの関係に基づいて軍事・経済の両面で近代化を推進。それに伴いイランでは、ナショナリズムが強調されるようになり、イスラム世界の一部という伝統的な観念より、近代的な国家としてのイランの一体性や独立を重視する姿勢を示した。
第二次世界大戦後、イギリスが勢力を衰退させるのと並行してソ連がイランへの影響力を強め、それにつれてイランでは外交的な独立を目指す民族主義的要求が高ま
り、クーデターで国民戦線の反英的指導者であるモハメド・モサデクが1951年に首相に就き石油収入のほとんどを握っていた外資の国有化を主張するようになる。これに対して、1953年にクーデターが発生し、モサデク首相は失脚。このクーデターを支援していたのが、米国のCIA(中央情報局)で、ソ連がこの
地に勢力を伸ばすことに警戒感を募らせた米国はイギリスからバトンを引き継ぎ、イランを自らの引力圏にとどめようとした。これ以降、米国は軍事、経
済の両面でイランとの関係を深めていく。
この時期、石油は出たが外資に安く買い叩かれ、国民の生活が困窮するイランの石油が国有になった隙をついて、日本の発展には石油が不可欠と英国にタンカーが拿捕される危険を冒して1953年4月、イランのアバダンに日章丸を入港させ、欧米資本が石油を独占する中、直接産油国から安い石油を買い付けたのが出光興産株式会社の社長・出光佐三(いでみつ・さそう)だった。イランの石油国有化が無効であると英国資本が抗議する中、拿捕され
るのを警戒して戦時中に沈没した日本の船の残骸が横たわるスマトラとジャワの間のスンダ海峡を座礁の危険を冒して通りぬけ、5月9日に、沈みそうなほど石油を満載した日章丸が川崎港に姿を見せた時には、港から「万歳」の声が沸きあがったという。英国資本の弁護士は、差し押さえを前提の仮処分申請を東京地裁に行なった(日章丸事件)が、地裁で出光は「この問題は国際紛争を起こしておりますが、私としては日本国民の一人として、俯仰(ふぎょう)天地に愧(は)じない行為を以(も)って終始することを、裁判長にお誓いいたします。」と、敗戦国の卑屈さなど微塵も感じさせない堂々とした態度で臨んだ。
日本政府は英資本の要求を敢て無視し、この後も出光はイラン石油の輸入を続け、日章丸が2度目の石油買い付けのために、再度アバダン港に赴くと、イラン岸から少年が丸木舟に乗って近づき、巨大タンカーのうねりでひっくり返りそうになりながら、口笛を吹いては大声で何か叫んでいる。桟橋は黒山の人だかりで、白いシーツのようなものを振っている人もいる。「ジャポン、ジャポン」と叫んでいる。飛行機が青空から黄色や赤の花を蒔いた。その時モサデク首相は「日本人の偉大さはつねにイラン人の敬服の的であり、その勇猛果敢な精神に感嘆している。不幸にして今次の大戦には敗れたけれども、いつの日か再び立ち上がる日のあることを確信している。、、日本がイランの石油を買う決心をされたことは感謝に堪えない。日本はイランの救世主であると思っている。ぜひこのことを日本に伝えて、われわれイラン国民の真意を汲んでほしい。」と述べている。イランと契約を交わしても、イギリスの拿捕、イギリスによる撃沈を恐れてタンカーをよこさない国が多い中、最初にイラン国有石油を運んだ日章丸はイランに大きな夢を持たせたのだった。実際英国は日章丸拿捕を試みたが失敗したと言われている。
モサデク政権が崩壊した後、イランでは米国の庇護のもと国王(シャー、パーレビ国王)が自ら農地改革など社会や経済の近代化を進めたが、格差は大きいままだった。その一方で、米軍やCIAの支援のもと、軍と情報機関による強権的な支配は、むしろ強化された。国民生活がひっ迫するとともにイスラムが社会の傍流に追いやられる状況に反感と警戒感が強まり、その抗議の中心にあったのがイスラム聖職者だった。
1978年、ゴムQomという宗教都市で生活苦を背景に、言論の自由や検閲の廃止、宗教の自由などを求める大規模な抗議デモが発生。デモは各地に飛び火し、これ
に軍隊が無差別に発砲したことで、さらに抗議デモは拡大した。混乱が広がる中、1979年1月にシャーは病気療養の名目で事実上亡命し、入れ替わりに、抗議運動の精神的支柱だったホメイニ師が亡命先のパリか ら帰国し、イスラム臨時革命政権が発足。
このイスラム革命は、シャーによる専制と世俗化の反動で、イスラムの教義と国民の政治参加を融合させた「イスラム
共和制」の導入にイランを向かわせた。その結果、3月には国民投票が行われ、98パーセントの圧倒的多数で、イスラム共和制の導入が可決された。それと同時に、イスラム革命は、シャーと結託して石油利権の多くを握り、内政をも左右して
きた米国への敵意を噴出させる契機にもなり、イラン政府は
しばしば米国を「大悪魔」と呼び、同年10月に米国政府がシャーの亡命を受け入れたことをきっかけに、首都テヘランにある米国大使館を群衆が襲撃。52人
の米国人が人質にされた(在イラン米大使館人質事件)。米国の反イラン感情も噴出し、米国内の銀行にあるイラン政府の預金などの資産が凍結され、翌1980年4月に米国はイランと断交。大使館占拠事件は、その後の米国によるイラン敵視の源流となった。
1980年9月、米国から武器支援を受けたイラクがイランへ攻撃することで、「イラン・イラク戦争」が始まり、イランからみて「革命への介入」であるこの戦争は、イランの反米感情をさらに強め、イランはイラン・イラク戦争と並行して核開発に着手したとみられている。この時期からイランは「革命の輸出」を開始。イスラムの少数派であるシーア派の中心地であるイランは、近隣のスンニ派諸国でシーア派組織を支援し、イラン型のイスラム共和制の樹立の拡散を目指し始めた。1982年に発足した、レバノンの反イスラエル組織「ヒズボラ」は、その代表例で、また、シリアのアサド政権はやはりシーア派の一派アラウィー派で占められており、イランはこれとも友好関係を深めた。ヒズボラやアサド政権はいずれも米国や、その同盟国イスラエルと敵対しており、これは米国のイラン敵視をさらに強め、1984年1月に米国はイランを「テロ支援国家」に指定した。
イランでは1988年8月にイラン・イラク戦争は国連の停戦要求を受け入れて終結し、翌1989年にホメイニ師が死去すると、革命の理念を追求する保守派に代わり、国際協調を模索する改
革派が台頭。1997年に大統領選挙で勝利した改革派のハタミ大統領は「文明間の対話」を掲げ、国際的な孤立からの脱却を目指し、日本やヨーロッパ諸国と
の関係改善を進めた。しかし、この動きを米国は基本的に無視しただけでなく、2001年9月の同時多発テロ事件を受けてブッシュ大統領(当時)はイランを、イラクや北朝鮮とともに「悪の枢軸」として名指しした。
この反応を受け、イランでは再び反米感情が広がり、2005年の大統領選挙では保守強硬派のアフマディネジャド氏が当選。折しも2003年のイラク侵攻
で、やはり「悪の枢軸」として名指しされていたフセイン政権が崩壊したことを受け、米国への警戒感を募らせたアフマディネジャド大統領のもと、イランは
核・ミサイルの開発を加速。2006年4月に低濃縮ウランの製造成功を、2007年11月にはヨーロッパの一部を射程に収める準中距離弾道ミサイル「ア
シュラ」の開発成功を発表。米国との対決姿勢を鮮明にしていった。
米国とイランの関係の転機は、2009年に発足したオバマ政権のもとで訪れた。米国「一国主義」と呼ばれたブッシュ政権の方針の反動で、オバマ
政権は国際協調を重視し、イラク侵攻後の米国の国際的な孤立の回復に努めた。長年対立し続いたイランやキューバとの関係改善も、その一環で、とりわけ、イランに関しては、保守強硬派政権のもとで核開発が加速することが、米国にとっての脅威にもなり、さらに、イランと交渉するなら、核弾頭の開発に成功する前に行う必要があった。オバマ政権は2009年4月には米・英・仏・独・ロ・中とイランによる交渉を進める方針を発表。長い交渉を重ね、2015年7月にこの6か国とイランの間 で歴史的な核合意が成立した(イラン核合意)。ここでは、核兵器に利用可能な高濃縮ウランの製造が禁じられるなど、平和目的(産業用、発電用)に限ったイランの核開発が 限定的に認められた一方、イランに対する経済制裁の解除が定められ、イランによる核開発が加速しかねない状況だったことから、イランと関係の深い露中だけでなく、ヨーロッパ諸国もこれを歓迎した。
ところが、トランプ政権は2018年5月にこの合意を破棄。全面的な核廃棄でなければ受け入れられない、という方針を採り、これは米国の保守派に多い、根深い反イラン感情を汲み上げたもので、大統領選挙の公約でもあった。イラン敵視が鮮明なイスラエルやサウジアラビアなどスンニ派諸国との伝統的な同盟関係を重視するトランプ政権は、歴代世間のなかでも反イランの立場が鮮明だ。しかし、トランプ政権による核合意の破棄は、イランから見て一方的過ぎるもので、現状でイランのハッサン・ロウハニ(Hassan Rouhani)大統領は英・仏・独・ロ・中の5か国とともに核合意に残留する姿勢だが、米国の対イラン圧力が強まった場合、核開発が逆に加速する恐れは十分にある。ただし、それは米国の「イランが脅威」という主張を補強し、イラク侵攻と同じく一方的な先制攻撃の口実を与えることにもなりかねない。そのため、イラン政府も簡単に方針転換はできず、トランプ政権が続く限り対立が度合いを増しながら継続していくと見られている。参照記事 参照記事コメント
2. Posted by 甲東 2018年05月24日 16:15
アメリカとイランが、歴史上、まともに話をしたことがあるのだろうかと思っています。パーレビ時代は完全な従属関係(CIAがギラギラしていた)。ホメイニ以降は、親の敵の関係。トランプが福音派が大好きなら、十二イマーム派とも話が出来るはずだが・・・十二イマーム派は穏健故に生き残った感じだが。
パーレビ国王、その親父さんは本当にイスラムだったのだろうかと、根拠もなく思っています。イスラムだったら、今でもモロッコの王政の様な存在であり続けただろうにと・・・パーレビ時代はイスラエルとも仲が良かった。その反動がでかい。
パーレビ国王、その親父さんは本当にイスラムだったのだろうかと、根拠もなく思っています。イスラムだったら、今でもモロッコの王政の様な存在であり続けただろうにと・・・パーレビ時代はイスラエルとも仲が良かった。その反動がでかい。
3. Posted by 甲東 2018年05月26日 07:04
1923年、新生トルコが出来、イギリスとつながったケマル・アタチュルクが西欧化を目指した。一方、ペルシャでは、パーレビ国王の親父さんレザー・ハーンがイギリスの援助で1925年にパフラヴィー朝を興し、西欧化を目指した。
20年ほどの差はありますが、どちらもコチコチのイスラムに戻ってしまった。イランは西欧化が激しかったのか反動が大きく、ぼんさんが親分になってしまった。イスラムを止めさせるというのは不毛な試みなんでしょう。トルコはスンニのスーフィズムが主体で、似て非なる教団の様な物が腐るほどある。イランは十二イマームにほぼ統一されている。
トルコ(テュルク)とイラン(ペルシャ)は、人材は豊富、とは言えるかも知れませんね。ところで、レザー・ハーンは、ペルシャの中ではテュルクの血が濃いと思います。今流に言うとアゼルバイジャンに近いか。ハメネイもそう。
20年ほどの差はありますが、どちらもコチコチのイスラムに戻ってしまった。イランは西欧化が激しかったのか反動が大きく、ぼんさんが親分になってしまった。イスラムを止めさせるというのは不毛な試みなんでしょう。トルコはスンニのスーフィズムが主体で、似て非なる教団の様な物が腐るほどある。イランは十二イマームにほぼ統一されている。
トルコ(テュルク)とイラン(ペルシャ)は、人材は豊富、とは言えるかも知れませんね。ところで、レザー・ハーンは、ペルシャの中ではテュルクの血が濃いと思います。今流に言うとアゼルバイジャンに近いか。ハメネイもそう。


主としてペルシャ文学の世界の話しではありますが、沈黙の2世紀という言葉があります。アラブに潰された後、約200年間はペルシャは停滞していたという意味合いです。しかし、10世紀頃から復活し出します。自分たちの古くからの習慣と、イスラムを上手く融合させたのでしょう。政治の世界では、アラブ、テュルクに支配されていた時期から、官吏としてはペルシャ人が多く登用されていた。優秀故。
今のシーア派の一派である十二イマーム派が陽の目を見るのは15世紀頃からですが、その前からアラブのイスラムとは結構違う世界でした。ある意味当然でしょうね。紀元前からの世界規模の文明国です。今でもぼんさん達はコーランの解釈能力が求められている。アラブは原則、新規解釈禁止。
もう一つ。今でも結構な国民が、アメリカと上手くやれたらなーと思っています。必ずしも、自分たちの現政権に反対という意味ではありません。少し大げさに言えば、包容力もある・・・