厳格なサラフィストsalafist(サラフと呼ばれる初期イスラムの時代を理想とするサラフィー主義の一派)は、預言者ムハンマドがメディナ(モロッコのal-Madina、イスラム教の聖地)にいた期間こそ、すべてのイスラム教徒が倣おうとすべき理想的なイスラム社会("最良の時代")だったと信じていた。(本質的に言って、これがイスラム教の最も保守的な思想であるサラフィズムにほかならない)。
ワッハーブ派のイスラム教義は、聖人や死んだ愛する人に祈ることや、墓や特別なモスクへの巡礼、聖人をたたえる宗教的祭り、イスラムの預言者ムハンマドの誕生日を祝うこと、そして死者を葬る際に墓石を使用することさえ禁じた。
Sheikh Muhammad Ibn Abd-al-Wahhab - Islam - Peter Crawfordワッハーブ派創始者アブドゥル・ワッハーブ Muhammad ibn Abd-al-Wahhab(1703~1792):写真右(元写真は右向き)は服従を要求した――物理的、具体的に示される服従だ。彼は、イスラム教徒すべては1人のイスラム指導者(カリフ、もし存在するな らば)に個人的に忠誠を誓う必要があると論じた。この考えに従わない者は殺されるべきであり、その妻や娘たちは犯されるべきであり、その財産は没収される べきだ、と書いている。死に処されるべき背教者のリストには、シーア派、スーフィー派、そして他のイスラム宗派、すなわちアブドゥル・ワッハーブが決して イスラム教徒であるとは考えなかった人々が含まれていた。アブドゥル・ワッハーブはさらに、ジハードの名の下に殉教という考えを持ち込んだ。それら殉教者たちはそのまま楽園へ行くことが保証されるというのだ。

こうした超急進的思想をアブドゥル・ワッハーブが擁護したことは、必然的に彼自身が町から追放されることにつながった。そして1741年、放浪を繰り返し たあげく、サウジアラビアのムハンマド・イブン・サウードと彼の部族の保護の元に避難することになる。イブン・サウードはアブドゥル・ワッハーブの高潔な教えがアラブの伝統と慣習を覆 す手段になると考えた。それは権力掌握への道だった。イブン・サウードとアブドゥル・ワッハーブはさらに、ジハードの名の下に殉教という考えを持ち込んだ。それら殉教者たちはそのまま楽園へ行くことが保証されるというのだ。

当 初、彼らはいくつかの小さな地元コミュニティを征服して自分たちのルールを課した(征服された人々には限られた選択肢しかなかった。ワッハービズムWahhabismへの改 宗、もしくは死である)。1790年までに、この連合はアラビア半島の大半の地域を支配しており、メディナ、シリア、イラクを繰り返し攻撃した。

彼 らの戦略は、現代のイスラム国と同様、征服した人々を服従させることだ。恐怖を植えつけることがねらいだった。1801年、この連合はイラクの聖都カルバ ラを攻撃した。女性や子供を含む何千人ものシーア派を虐殺した。預言者ムハンマドの殺害された孫であるイマーム・フセインの寺院を含め、シーア派の寺院の 多くが破壊された。(カルバラの大虐殺)

ワッハーブ派 Wahhabism; Wahabism ;orthodox Sunni sect of Islam、18世紀半ばにアラビア半島に起こった復古主義的なイスラム改革運動 スンニ派)の始祖の本名はムハンマド=イブン=アブド=アル=ワッハーブ。彼の協力者となったのがムハンマド=イブン=サウード。この「二人のムハンマド」が結成したのがワッハーブ派。)Ikhwanイフワーン Ikhwan(サウジアラビアの建国を支えた民兵組織.、同胞;写真右)を従えたアブドゥル・アジズ・イブン・サウード(2代目ワッハーブ王国(第1次)国王)は1803年、恐怖とパニックにより降伏した聖都メッカに入った(同様の運命がメディナにも間もなく訪れることになる)。アブドゥ ル・ワッハーブの追随者たちはメッカにある歴史的建造物やすべての墓、寺院を破壊した。1803年末までに、彼らはグランド・モスク近くの何世紀もの歴史 を持つイスラム建築物を破壊した。

しかし1803年11月、シーア派の暗殺者がアブドゥル・アジズを殺害する(カルバラの大虐殺の報復だ)。彼の息子、サウド・ビン・アブドゥル・アジズ(Saud bin ʿAbdulazīz)が その後を継ぎ、アラビアの征服を継続した。しかしオスマンの支配者たちはもはや、指をくわえて自分たちの帝国が少しずつ削り取られていくのを見ていること はできなかった。1812年、エジプト人で構成されたオスマンの軍隊はこの連合をメディナ、ジェッダ、そしてメッカから追い出す。1814年、サウド・ビ ン・アブドゥル・アジズは熱病により死亡した。後を継いだ彼の不運な息子、アブドゥラ・ビン・サウードはオスマン人によりイスタンブールへ連れてゆかれ、陰惨 な方法で処刑された(イスタンブールを訪れたある人は、彼がイスタンブールの通りで3日間にわたって辱められ、その後つるされて首を切られ、切断された頭 部はキャノン砲で吹き飛ばされ、心臓は切り出されて体の上に突き刺されたと報告している)。

1815年、ワッハーブの軍は決定的な戦いでエジプト人(オスマンのために行動していた)と衝突する。1818年、オスマン人はワッハーブの首都ディル イーヤDiriyah:現在のサウジアラビアの首都リヤド(Riyadh)郊外に位置する都市)を制圧し破壊した。ここに第一次サウード王国は消滅した。ワッハーブ派の少数の生き残りが再起のため砂漠に逃げ、19世紀の間のほとんど、そこで沈 黙を貫いた。

現代のイラクにおけるイスラム国によるイスラム国設立が、歴史を思い出す人々の間でどのように共振するかを理解するのは難しくない。確かに、18世紀の ワッハービズム思想はネジド(サウジアラビア中央部の高原地域。ワッハーブ派の発祥地)において枯渇しなかった。それは第一次世界大戦の混乱のさなかにオ スマン帝国が崩壊した時、唸り声を上げて舞い戻ってきた。

当初と同じように、イフワーンは再び1914年から1926年の間にメッカ、メディナ、そしてジェッダの制圧に成功する。しかしアブドゥル・アジズ(サウジアラビア初代国王)は、イ フワーンによって掲げられる革命的な"ジャコバニズムJacobinisme"が、自分のより広範な関心事にとって脅威になると感じ始めた。イフワーンは反乱し、内戦が始まっ た。内戦は1930年代まで続いた。アブドゥル・アジズが彼らをマシンガンで射殺し、終結させたのだ。

この王(アブドゥル・アジズ)にとって、それまで数十年間続いていたイスラムの純粋な真理は価値のないものとなってしまった。アラビア半島で石油が見つかったからだ。革命的ジハードと神学的なタクフィール(背教徒宣告)の純化運動から、保守的、社会的、政治的、神学的、宗教的ダワ(イスラム布教活動)と、サウード家と王の絶対的権力への忠誠を掲げる制度を正当化する運動は変換期を迎え、ワッハービズムは強制的に変換させられた。西側の人々はこの王国が近代社会の要求に屈服することになるだろうと予測していた。そしてスンニ派イスラムの指導部も、近代社会のために、王国に屈服するだろうと。

しかしイスラム教へのサウジ・イフワーンのアプローチは1930年代に断絶していなかった。イフワーンは衰退したがhigh、システムのさまざまな場所に影響力を残していた――だから今、我々はサウジのイスラム国への姿勢に二重性があると見ている。

一方では、イスラム国は深く根ざしたワッハーブ派だ。他方で、異なる意味で超急進的だ。それは現代ワッハービズムへの是正運動に本質的に見ることができる。イスラム国は"ポスト・メディナ"運動だ。闘争の旗印として預言者ムハンマド自身よりも、2人の正統カリフ(初期イスラム国家の最高権威者)カリフに目を向けており、サウード家の支配権を強く否定している。現在、イスラム国が王権の正当性を弱めようとする動きは問題ないとみられている。むしろ、サウード家―ワッハービズムへの原点回帰だと言える。であれば、サウジの情報機関トップであるバンダル王子のサウジ―西側コネクションがシリアのアサド大統領への反乱を指揮するよう命じ、現代のイフワーン的 な暴力、恐ろしい急進的活動、すなわちイスラム国を出現させたことに驚きはない。ワッハービズムについていくらか知っているなら、シリアの"穏やかな"抵 抗勢力(筆者注:シリアの反政府イスラム勢力はISに対し穏健派といわれる。 "moderate" insurgents)が神話のユニコーンよりも珍しい存在だということに驚くこともないだろう。参照記事より抜粋加筆 英文記事 翻訳元記事の年号の誤記は訂正 1941>1741 長文元記事を独自に編集したため、文章の配列は元記事と多少違っています。

img_3c3adbffd3baaea8e7aec7320ab103c7158444サラフィストsalafistが何を信じて、どこに回帰しようが、それは自由だが、問題は、彼らが全世界を自分たちの原理で制覇しようと目論んでいることだ。サラフィストは、コーランを唯一の法典とみなし、その他のいかなる価値観も、憲法も、宗教も認めない。つまり、早い話が、自分たちだけが正しく、他はすべて悪。そして、これが1番の問題なのだが、自分たちの主張を通すためには、暴力も辞さない。ドイツ連邦憲法擁護庁の長官は「サラフィストの全員がテロリストではないが、テロリストの全員がサラフィストであることは確か」と語っている。写真は4月14日、ベルリンのポツダム広場で無料のコーランを配布するイスラム教組織の男 参照記事

過去ブログ:2014年9月「イスラム国:IS」の表記と指導者の変遷  9月世界を敵に回したIS シリア空爆で中東も合意 7月早々と、過激派はイスラム国家の樹立を宣言 イラク 6月イスラム教とバグダッド シーア派 スンニ派 そして日本への影響




nappi11 at 00:09│Comments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

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