2014年1月1日:南極で約100年氷漬けだった硝酸セルロースベースのネガcellulose nitrate negativesから映像が再現され2013年12月30日公開された。画像は、約100年前南極で2年間の遭難後生還した英国のシャックルトン隊(正確には支隊)が撮ったものだった。見つかった22枚のネガは、アムンセンに先を越されていたが、1912年1月17年に南極点に到達しながらも全滅した英国スコット 隊(Robert Falcon Scott )が南極に残した小屋の食品庫に、その後小屋を使用したシャクルトン隊が残したもので、慎重な現像の結果、奇跡的に数枚から鮮明な画像が浮かび上がった。写真は発見されたネガの塊とはがした様子。小屋は、恐らく過去記事で紹介したのと同じ南極エヴァンス岬(Cape Evans)に残っている小屋と思われる。この当初補給基地確保の遠征隊は、下の地図の上の捕鯨基地から南極大陸に進行する予定のシャクルトン本隊と、下方向からの支隊の二つに分かれており、今回のネガはロス海支隊Ross Sea Partyが残したものと推測され、写真下の船はオーロラ号The Auroraと思われる。写真下右の男性はロス海支隊の主任科学者Alexander Stevens。 参照記事 参照記事 過去ブログ:2009年12月100年前のバター、南極スコット隊の小屋から発見。
以下にシャクルトン本隊の壮絶な遭難と生還の経緯を、他記事からの転用に加筆で紹介しておく。参照記事 参照記事
1911年にロアール・アムンセンがj人類初の南極点到達を果したことから、アイルランド人のシャクルトン(Sir Ernest Henry Shackleton )は目標を南極点South Poleを経由する南極大陸横断に変え、1914年、シャクルトン率いる大英帝国南極横断隊 Imperial Trans-Antarctic Expedition はエンデュアランス号Enduranceで南極大陸横断に向かった。しかし本隊一行は途中で遭難し、南極の海で氷の塊の中に閉じ込められてしまう。そのまま約10ヶ月間漂流した後、ついに船が沈没。南極大陸横断の計画はここで完全に頓挫してしまう。映像1 映像2 他の写真など
シャクルトンたちは船から持ち出した最小限の備品を使って氷上でキャンプ生活をしながら、脱出のチャンスを伺った。ようやく脱出の機会を得た本隊一行は、救 命ボートに乗って荒海へと出発する。彼らは何とかエレファント島Elephant Islandへとたどり着いたものの、隊員の中には体力の消耗が激しい者もいたため、シャクルトンと体 力の残っている5人の計6人が捕鯨基地のあるサウスジョージア島South Georgia Islandへ再び出航する。といってもサウスジョージア島はエレファント島の北東1,300kmにあ る島だ。やっとの思いでサウスジョージア島に到着したが、捕鯨基地があるのは彼らが到着した地点の反対側。捕鯨基地に向かうためには島にある標高約1000mの山脈を越える 必要があった。そこでシャクルトンは、5人の中からさらに体力が残っている者2人を選んで徒歩で40キロ先の捕鯨基地を目指し、ついに救助を得た。
イギリスを出発してから約2年後、各地に残してきた隊員も救助され、シャクルトン以外の隊員27名全員が奇跡的に生還を遂げた。誰かが死ぬのが当たり前 だった南極探検において、しかも遭難というイレギュラーな状況の中で、誰一人も死者を出さなかったことが、シャクルトンのリーダーシップをクローズアップ させることになったのだ。ただし、南極大陸の反対側、下の地図のケープエバンスCape Evansへオーロラ号The Auroraで派遣したロス海支隊Ross Sea Party は、ロス棚氷(Ross Ice Shelf)のバードモア氷河Beardmore Glacierへ物資を運ぶ任務中3名の死者を出していると記録されている。
*作図に際し、複数の資料からの筆者の解釈が入っています。間違いがあれば後日訂正します。
以下にシャクルトン本隊の壮絶な遭難と生還の経緯を、他記事からの転用に加筆で紹介しておく。参照記事 参照記事
1911年にロアール・アムンセンがj人類初の南極点到達を果したことから、アイルランド人のシャクルトン(Sir Ernest Henry Shackleton )は目標を南極点South Poleを経由する南極大陸横断に変え、1914年、シャクルトン率いる大英帝国南極横断隊 Imperial Trans-Antarctic Expedition はエンデュアランス号Enduranceで南極大陸横断に向かった。しかし本隊一行は途中で遭難し、南極の海で氷の塊の中に閉じ込められてしまう。そのまま約10ヶ月間漂流した後、ついに船が沈没。南極大陸横断の計画はここで完全に頓挫してしまう。映像1 映像2 他の写真など
シャクルトンたちは船から持ち出した最小限の備品を使って氷上でキャンプ生活をしながら、脱出のチャンスを伺った。ようやく脱出の機会を得た本隊一行は、救 命ボートに乗って荒海へと出発する。彼らは何とかエレファント島Elephant Islandへとたどり着いたものの、隊員の中には体力の消耗が激しい者もいたため、シャクルトンと体 力の残っている5人の計6人が捕鯨基地のあるサウスジョージア島South Georgia Islandへ再び出航する。といってもサウスジョージア島はエレファント島の北東1,300kmにあ る島だ。やっとの思いでサウスジョージア島に到着したが、捕鯨基地があるのは彼らが到着した地点の反対側。捕鯨基地に向かうためには島にある標高約1000mの山脈を越える 必要があった。そこでシャクルトンは、5人の中からさらに体力が残っている者2人を選んで徒歩で40キロ先の捕鯨基地を目指し、ついに救助を得た。
イギリスを出発してから約2年後、各地に残してきた隊員も救助され、シャクルトン以外の隊員27名全員が奇跡的に生還を遂げた。誰かが死ぬのが当たり前 だった南極探検において、しかも遭難というイレギュラーな状況の中で、誰一人も死者を出さなかったことが、シャクルトンのリーダーシップをクローズアップ させることになったのだ。ただし、南極大陸の反対側、下の地図のケープエバンスCape Evansへオーロラ号The Auroraで派遣したロス海支隊Ross Sea Party は、ロス棚氷(Ross Ice Shelf)のバードモア氷河Beardmore Glacierへ物資を運ぶ任務中3名の死者を出していると記録されている。
*作図に際し、複数の資料からの筆者の解釈が入っています。間違いがあれば後日訂正します。