カチューシャ - YouTube春になると思いだす歌がある。ロシア民謡の「カチューシャ Katyusha Катюша」で、これを聞くと亡くなった母親を思い出す。YOUYUBE映像 YOUTUBE映像、日本語訳つき

自分が多分小学生の低学年だったころ、ラジオから流れてきたロシア民謡に、母親がロシア語で口ずさんでいた。その時は知らなかったが、母親は今のサハリン、樺太で青春の一時期を過ごし,樺太で師範学校を卒業している。たまに思い出したように「そこではロシア人も日本人も中国人もみんな仲良く暮らしていた」と懐かしみ、ロシア人から教えてもらったという焼きりんごをお八つに作ってくれた。当時のことを話すことはなかったが、ロシア語も少しは知っていたはずだと思う。 

終戦前に祖父は樺太で経営していた工場を引き上げ、それなりに苦労もしたはずだが当時のことを語ることも無かった。今思えばいろいろ聞いておけばよかったと思うが、今はそれも叶わない。自然が豊かで、川に沢山のサケが泳いでいたと母から聞いた記憶がある。

4RIA-554690-Preview「カチューシャ」を作曲したのはマトヴェイ・ブランテル、作詞はミハイル・イサコフスキイで、この曲が初めて演奏されたのは1938年とある。その後、伝統的ロシア民謡歌手であるリディア・アンデレイェヴナ・ルスラーノヴァ;写真右(Lidia Ruslanova  Лидия Русланова 1900-1973)p140が持ち歌として歌い、既に著名な民謡歌手であったルスラーノヴァは、やや現代風だった「カチューシャ」に独特の民族色を漂わせる演奏を行い、好評を博し広まったという記述もある。(Katyusha- Lidiya Ruslanova   当時のソロ歌唱 Katyusha - Original Version は力強い歌い方だ)参照記事

「カチューシャ」というのは、ロシア女性の名前エカテリーナの愛称形で、沿海地方の郷土史研究家らは最近、歌のヒロインのモデルとなったのは、ウラジオストクVladivostok生まれの女性、エカテリーナ・アレクセーエワ Ekaterina Alekseevaだと突き止めた。彼女は1930年代に、レニングラード音楽院を卒業し、国境警備隊の将校Alexander Alekseevaと結婚、国境での慣れない辛い生活を想い、愛する人を待ち続ける日々が彼女のその後の 生活となった。

62カチューシャの待っていた夫は、1938年「battles at Lake Hassan 」の戦闘に参加と短い記述があり、調べると、これは満州でのソ連軍と日本関東軍との初めての軍事衝突「張鼓峰事件」を指し、日ソ共で、千数百人の戦死者を出す大きな激戦で、その時は日本軍がかろうじて勝利している。これがその後1941年4月の日ソ中立条約(相互不可侵条約)につながっていく。カチューシャの待つ恋人は、日本軍と戦っていた事になり、カチューシャも国境の戦闘を経験したとの記事があるので、彼女も日本軍と戦った可能性がある。調べているうちにたどり着いたことだが、意外でもあり驚きだった。 写真は、1938/昭和13年7月31日日本軍「張鼓峰」を奪還する

Katyusha - YouTube.
原曲では、カチューシャが、自分の愛する人を待つ歌だったが、替え歌も多く作られ、また、戦後ロシアに抑留されていた日本人兵士も、故郷をしのんで好んで歌ったと言われ、日本語歌詞では恋人が故郷で、春になっても戻らない兵士を想う歌になっている。シベリアの収容所で共産主義を教育された復員兵が日本の港に着いてから、手に手に赤旗を持ち、「カチューシャ」を歌いながら行進したという記録も残り、戦後しばらく酒場から、シベリアから帰れなかった戦友を偲ぶ、この大合唱が聞こえてきたという。

曲はアレンジされ、勇壮な軍歌にも、行進曲にもなった歴史があるが、自分にとって「カチューシャ」は、AKBの髪飾りでもロケット砲(多連装ロケット自走砲 BM-8、BM-13)でも、軍歌でもなく、37母親の思い出である。
ロシア極東沿海地方ウラジオストクに、この曲の記念碑が立つ予定だと、2013年5月10日に報じられた。下の漫画は、抑留経験者の元日本兵が描いたもので、抑留先ではロシア兵と一緒に、よく歌を歌ったと記録されている。下のリンク先から借用した。 参照記事 英文記事 過去ブログ;2012年6月旧ソ連抑留画集 ~ 元陸軍飛行兵 木内信夫 ★ 保存記事 2009年6月ウズベキスタンと日本兵 あるシベリア抑留

nappi11 at 05:03│Comments(1) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

コメント

1. Posted by POPPO   2013年05月13日 15:44
母方の叔母一家が満州帰還者。社会人として初めて仕えた上司がシベリヤ抑留帰還者。こちらから当時の事を聞く事はなかったが、ポツリポツリと生々しい話を何かのふしに聞いた覚えがある。

大学で最初にお付き合いした彼女の父が、ノモンハンで活躍した戦車隊出身。当時は日本がノモンハンでコテンパンにやられ、参戦した師団の指揮官たちが帝国陸軍上層部により次々に自決を迫られたなどという戦記が一般的だった。

ソ連が崩壊して、ソ連側の記録が流出すると、人的物的損害はソ連も甚大なものがあり、事実を改竄して公式発表していたことが判明。日本にはうかつに手を出せないというソ連側の戦訓となり、日本軍の健闘は露助に対し十分な抑止力になった。ただ苦戦を恥と考え情報を公開せず、苦戦の戦訓を現状の改革につなげなかったことが、後日の大敗北の一因となったと感ずる。

まったく戦争の影が遠くなった今と違い、60年代から70年代は戦争体験者がまだゴロゴロおられて、その方々の思い出と歌などが一体化していたように思う。

コメントする

名前
メール
URL
絵文字