
自分が多分小学生の低学年だったころ、ラジオから流れてきたロシア民謡に、母親がロシア語で口ずさんでいた。その時は知らなかったが、母親は今のサハリン、樺太で青春の一時期を過ごし,樺太で師範学校を卒業している。たまに思い出したように「そこではロシア人も日本人も中国人もみんな仲良く暮らしていた」と懐かしみ、ロシア人から教えてもらったという焼きりんごをお八つに作ってくれた。当時のことを話すことはなかったが、ロシア語も少しは知っていたはずだと思う。
終戦前に祖父は樺太で経営していた工場を引き上げ、それなりに苦労もしたはずだが当時のことを語ることも無かった。今思えばいろいろ聞いておけばよかったと思うが、今はそれも叶わない。自然が豊かで、川に沢山のサケが泳いでいたと母から聞いた記憶がある。


「カチューシャ」というのは、ロシア女性の名前エカテリーナの愛称形で、沿海地方の郷土史研究家らは最近、歌のヒロインのモデルとなったのは、ウラジオストクVladivostok生まれの女性、エカテリーナ・アレクセーエワ Ekaterina Alekseevaだと突き止めた。彼女は1930年代に、レニングラード音楽院を卒業し、国境警備隊の将校Alexander Alekseevaと結婚、国境での慣れない辛い生活を想い、愛する人を待ち続ける日々が彼女のその後の 生活となった。


曲はアレンジされ、勇壮な軍歌にも、行進曲にもなった歴史があるが、自分にとって「カチューシャ」は、AKBの髪飾りでもロケット砲(多連装ロケット自走砲 BM-8、BM-13)でも、軍歌でもなく、

ロシア極東沿海地方ウラジオストクに、この曲の記念碑が立つ予定だと、2013年5月10日に報じられた。下の漫画は、抑留経験者の元日本兵が描いたもので、抑留先ではロシア兵と一緒に、よく歌を歌ったと記録されている。下のリンク先から借用した。 参照記事 英文記事 過去ブログ;2012年6月★ 旧ソ連抑留画集 ~ 元陸軍飛行兵 木内信夫 ★ 保存記事 2009年6月ウズベキスタンと日本兵 あるシベリア抑留
大学で最初にお付き合いした彼女の父が、ノモンハンで活躍した戦車隊出身。当時は日本がノモンハンでコテンパンにやられ、参戦した師団の指揮官たちが帝国陸軍上層部により次々に自決を迫られたなどという戦記が一般的だった。
ソ連が崩壊して、ソ連側の記録が流出すると、人的物的損害はソ連も甚大なものがあり、事実を改竄して公式発表していたことが判明。日本にはうかつに手を出せないというソ連側の戦訓となり、日本軍の健闘は露助に対し十分な抑止力になった。ただ苦戦を恥と考え情報を公開せず、苦戦の戦訓を現状の改革につなげなかったことが、後日の大敗北の一因となったと感ずる。
まったく戦争の影が遠くなった今と違い、60年代から70年代は戦争体験者がまだゴロゴロおられて、その方々の思い出と歌などが一体化していたように思う。