イギリスで、2012年8月、元修道院があった駐車場から発見された男性の遺骨が15世紀、1485年に32歳で亡くなったイングランドの著名な王、リチャード3世のものだと2013年2月4日、死後500年以上を経て確認された。地図は発掘場所の地図
この遺骨は、イギリスのレスター大学University of Leicesterを中心とする研究グループが、2012年9月、イギリス中部、レスター Leicester にある駐車場の地下から発掘したもので、見つかった場所や体の特徴などから15世紀のイングランドの王、リチャード3世( English king Richard III:当時32歳)の可能性が高いとして、DNAを一族の子孫のものと比べた結果、4日、リチャード3世の遺骨と断定し公表された。リチャード3世は1483年に王位に就いたが、その2年後、ヨーク家とランカスター家が王位をめぐり約30年間も争った「バラ戦争」と呼ばれるイングランドの内乱のなか、1485年8月22日のボズワースの戦いで、ヨーク家リチャード3世は自ら軍を率いてランカスター家ヘンリー7世Henry VIIと決戦するが、この戦いでリチャードは味方(サー・ウィリアム・スタンリー:Sir William Stanley)の裏切りに遭い、自ら斧を振るって奮戦したが、遺骨からみると壮絶な戦死を遂げ、遺体は当時の習慣に従って丸裸で晒(さら)された後、レスター市内の修道院に埋葬されたが、修道院は1530年代に取り壊され、場所も分からなくなっていた。英国の王で、最後に戦死した王でもある。在位わずか2年と47日だった。このばら戦争でリチャード3世を破ったヘンリー7世は、シェイクスピアの戯曲によればその場で即位し、英国全土を掌握、「薔薇戦争」は終結した。彼は 1485年10月30日、ウェストミンスター寺院にて戴冠(戴冠前はヘンリー・チューダー:Henry Tudor)、正式にチューダー朝の始祖ヘンリー7世となった。チューダー朝はその後のステュアート朝までイギリスの王朝(
遺骨の検証から、沼地で落馬し、斧槍や剣、短剣で武装した3、4人の敵に囲まれたリチャード3世には10か所の傷(のちの調査で11か所参照記事)が確認され、そのうち8か所が頭がい骨だった。頭がい骨の2か所が致命傷で、一か所は、脊柱に近い後頭部で、刃のついたヤリの様な武器:halberd (写真は参考写真)の打撃により水平に頭骨の一部が大きく切り取られ、もう一か所は、短剣:dagger のようなもので頭骨の反対側にまで達する深さ10cm以上の深い刺し傷だった。おそらくこの二か所の致命傷で即死だったと推測される。
両手が異常に交差していることから、埋葬時には、両手が縛られていた可能性が指摘されている。他に、骨盤あたりから臀部へ向かって上向きに刺された、国王を辱めるためと思われる傷も確認されている。背骨は大きく曲がり、このことは過去に書かれた史実通りで、脊柱側湾症 scoliosisが確認された。この症状は、彼が10代の時発症しと推測され、この背骨の異常で、170cmといわれる身長よりも実際は小さく見え、右肩が上がっていて、決してスラリとし た体型ではなかっただろうと推測されている。死亡時は32歳と言われる。 参照記事 遺骨の写真など
シェークスピアの史劇「リチャード3世」では、王になるために関係者を次々と殺害するなど権謀術数をめぐらす残忍な人物として描かれている。
過去のシェークスピア(1564年生~1616年没)の史劇『リチャード三世』(King Richard III、正式には『リチャード三世の悲劇』The Tragedy of King Richard the Third 初演は1591年)では、写真のような、背中が丸まり、杖なしでは歩けない容姿で演じられていたようで、今回の遺骨の検証で、シェークスピアの作品中の記述でリチャード3世は、怪異な容貌と鬱屈した野心のため嫌われ、恐れられつつも巧みに人を惹きつける男として描かれ、最期を迎えることになる戦場で落馬、「馬をくれ、馬を! 代わりに王国をくれてやる"A horse! A horse! My kingdom for a horse!"」と叫んだとなっている。
2013年8月2日;リチャード3世の遺骨発掘現場から、新たな棺が見つかった。イギリス、イングランド中部のレスターの駐車場で丁重に葬られており、1485年、ボズワースの戦いで亡くなった王の墓より1世紀以上遡ると専門家は述べている。今回見つかった墓は豪華だ。遺体は十字架で装飾された鉛の容器に密閉され、さらに石灰岩のサルコファガス(sarcophagus:石棺=stone coffin)に収められている。しかも、当時の修道院の目立つ場所に埋葬されていた。
発掘チームを率いるレスター大学(University of Leicester)の考古学者リチャード・バックリー(archaeologist:Richard Buckley)氏は、「相当な地位の人物に違いない」と予想する。修道院の埋葬記録を徹底的に調べた結果、3人の被葬者候補が浮上している。最有力と目されるのはピーター・スワインズフィールド(Peter Swynsfield)。修道院の創設者の1人で、1272年に死亡。2人目は1330年没のノッティンガムのウィリアム(William of Nottingham)。修道院のトップに立った人物だ。そして、3人目はウィリアム・デ・ムートン(William de Mouton)。レスター市長も務めた中世の騎士で、1350年代後半に亡くなっている。 「穴から覗くと足の骨が見える。ほかにも有機物や衣服が残っていれば、とても興味深い手掛かりになるだろう」とバックリー氏は期待している。 数カ月後には、穴から挿入した内視鏡で内部を調査する予定。次々と明かされる失われた修道院の歴史に、新たな名前と物語が加わるかもしれない。 参照記事より抜粋 英文記事
2013年8月28日:遺骨の再埋葬場所をめぐり、遺骨を発掘したレスター大学などと、3世の子孫が住む地元、中部ヨークの関係者が激しく争い、裁判沙汰に発展。英高等法院(ロ ンドン)は27日までに、一般市民の声を広く募り、最終判断を下すべきだとの判断を示した。双方の争いは、リチャード3世にちなみ、「第2次薔(ば)薇 (ら)戦争勃発か」と注目を集めている。遺骨を発掘したレスター大学の考古学チームは遺骨の所有権を主張すると同時に、今年2月、遺骨をレスター大聖堂に再埋葬する計画を発表。英政府もこれを承認していたが、リチャード3世の子孫やレスター大聖堂Leicester Cathedralへの埋葬反対派が、再埋葬地はヨーク朝最後のイングランド王だった彼の権力基盤で、リチャード一族の名前の由来にもなった北部のヨークYorkにすべきだと主張。今回の対立、双方のメンツの問題ももちろんあるが、世界的に有名なリチャード3世の墓の所在地になれば、観光面で大きな経済効果が見込めることも大きな原因のひとつだ。実際、昨年9月の遺骨発見以降、レスター大聖堂への訪問者は従来の20倍に激増したという。参照記事
2013年9月4日:英中部レスターの駐車場で昨年発掘された15世紀のイングランド王、リチャード3世の遺骨を調査している英国の研究チームは4日、リチャード3世が寄生虫:parasitic wormsに感染していたとする論文を英医学誌ランセット( The Lancet電子版)に発表した。現地での報道によると、遺骨のうち腸 intestineがあったとみられる部分から採取した土壌から、回虫卵 roundworm eggsが複数見つかったという。当時は衛生状態が劣悪で、回虫の寄生は珍しくなかったとされるが、王の生活を解明する手掛かりの一つになりそうだ。参照記事 英文記事 英文記事
2014年2月11日:英中部レスターの駐車場で2012年に発掘された15世紀のイングランド王、リチャード3世の遺骨を調査しているレスター大のチームは11日、遺骨からDNAを取り出してゲノム(genome全遺伝情報)を解析し、髪や目の色などの容姿や、健康状態を調べる計画を明らかにした。遺骨は歴史資料が伝える通り、背骨の著しい湾曲scoliosisが見られたため、関連する遺伝情報がないか調べ、死後の肖像画が目や髪の色などが正確かも検証される予定。彼は子孫を残さなかったが、母方のmitochondrial DNAから、カナダ生まれのMichael Ibsen氏:左(現在 North London在住)が同じ血統にあると判明している。リチャード3世は歴史上の人物として、初めて遺伝子配列が解析される人物となり、今後の研究に利用される。 参照記事 参照記事 参照記事
2017年5月15日:、、、興味深いのは、骨の炭素窒素同位体比分析の結果だ。これらの同位体の比率から、その人が生前何を食べていたのかを知ることができる。2~3年周期で生まれ変わる肋骨(ろっこつ)などを分析すると、1483年の即位後に高たんぱくの食事を取るようになった可能性が高いとわかった。記録では、リチャード3世はクジャクや白鳥などの鳥の肉、コイやカワカマスなどの淡水魚を好んで食べたことがわかっており、それと一致する。また、リチャード3世は肖像画では濃い茶色の髪と目を持つ人物として描かれることが多かったが、DNA解析からは96%の確率で青い瞳を持ち、77%の確率で少なくとも幼少期にはブロンドであったことがわかった。ただし、金髪は年とともに色が濃くなることが多いことから、即位時には茶色だった可能性もあるという。復顔されたリチャード3世は細面のイケメン。遺骨の背骨は曲がっていたが、手足はなえていなかった。残された手紙などから、中部イングランドのアクセントで話した可能性が指摘されている。 遺骨は家具製造業を営む子孫が作った棺に納められ、2015年にレスター大聖堂に安置された:写真左。顔の模型などはビジターセンターで見学できる:右。参照記事 参照記事
2024年6月18日:後年のシェークスピアの記述によるリチャード3世の性格は、貪欲にして冷酷。外見も醜悪に描かれており、脊髄が曲がって脚をひきずった、ヒキガエルのような男で、実際、その悪行も留まるところを知らず、幼い甥を含めて親族を手に掛け、そして最期は誰からも見捨てられ、戦場で惨殺される――。となっているが、あくまでも後年の創作であり、遺骨から脊椎側彎症の跡も発見されているが、ただし、シェイクスピアが悪意をこめて描くほど強い症状ではなく、甲冑や衣服で隠せる程度であったとのこと。また、リチャード3世はむしろ、冤罪被害者だったかもしれないとの解釈も根強く存在する。近年では、「シェイクスピアの描いたリチャード3世は、フィクションとしては素晴らしい。でも、史実は別」、、そういうとらえ方が主流です。
コメント
2. Posted by よりばば 2013年02月05日 20:24
DNA鑑定、凄いですね。
3. Posted by ハロー名無し 2013年02月06日 07:56
馬をくれ! 王国をやるから馬をくれ !
頭骨まで穴 凄い力でしょね 田舎 ☂気温10度あります