昨日のTVドラマ「遺恨あり 明治十三年 最後の仇討」(テレビ朝日系)に合わせ、過去のあだ討ちVengeanceに関するブログ:猫だらけの銭湯と仇打ち から抜粋、加筆、再掲載。

kuroiwa2ll明治政府は。社会の秩序の保全から、国や地域社会などの公の部分が犯人を裁き処罰するという国家的公刑罰権の確立が近代国家の基礎であるとし、「仇討ち禁止令」を1873(明治6)年に発布したが、そのきっかけは、1871(明治4)年、和歌山県高野町神谷で起きた「高野の仇討ち」といわれる。事件は1862(文久2)年、kuroiwa3kk播州(現兵庫県)赤穂藩で起きた。大名の家臣のうちの最重職の家老を補佐した重臣・村上真輔(しんすけ)が反対派の集団に殺されたことから、4人の遺児が9年後、父を殺した6人が高野山に向かうのを知り、待ち伏せて殺した。村上兄弟には、殺人罪として死刑判決を下されたが、後に禁固刑に080928e8減刑され、結局、5年後に釈放された。その事件の2~3年後、高野下から神谷に登る街道筋(新高野街道)の茶屋に、枕屏風から作ったと言われる仇討ちの絵看板が、明治期から昭和にかけて2~3ヶ所の茶屋にあったそうです。写真の絵は「高野のあだ討ち」を描いたものですが、当時茶屋に在ったものかは不明です。参照記事 左は現在の高野街道のあだ討ち場所、当時はもっと狭かったと記されている;参照記事

記録に残る最後のあだ討ちは1880年(明治13年)で130年前、この年の12月、福岡藩の支藩秋月藩の 臼井六郎が11歳の時(明治元年《慶応4年・1868》5月24日早暁)に惨殺された父(臼井亘理うすい わたり)母(清子)、妹(つゆ:負傷とも死亡とも)の仇として東京上等裁判官判事補一瀬直久を東京・京橋三十間堀の黒田長徳(ながのり)邸内(現銀座6丁目)で刺殺。六郎は当時まだ幼く、父殺害は千城隊だとしか教えられなかったが、後年学友の一瀬道之助が兄・直久が暗殺の直接犯人だと漏らしたのを聞き、六郎は『仇討』を決意したという六郎は以後文武に励み成長してから「天誅の名で眠ている父や母、子供まで殺傷したのは武士の行動としては許し難い」と熟考の末「仇討をしてしかるべき」と結論を出した。これが日本での武士道による最後の仇打ちだそうです(下の写真臼井六郎本人。) 一般に電灯が普及するのは明治15年以降、北海道の最初の鉄道、小樽から札幌までが開通したのは明治13年(1880年)でした。

ついでながら、その仇打ちの場面を残しておこう。
  <仇討ち決行!>日本最後の仇討ち~秋月藩士族・臼
今や一瀬は、新政府で裁判所判事となっており、静岡に居ると聞いて六郎は静岡へ行くが、既に一瀬は東京へ転勤になっていた。そこで上京した六郎は、一瀬の行方を探りながら北辰index一刀流の山岡 鉄舟(左)の元で剣の腕を磨き、「自分も裁判官になればチャンスがある」と願書をだして熊谷裁判所の雇員となり機会を窺っていた。そしてたまたま、旧藩主黒田長沖邸で毎月1 回、旧秋月藩士を集めて碁会が開かれ、時々一瀬もそこに来ていることを聞き込んだ。明治13年(1880年)12月17日、六郎は黒田邸を物陰から見張 り、一瀬が館へ入 るのを見るとすかさず後を追い、階段を上りかけた一瀬に向かって「親の敵、覚悟せい。」と叫んだ。一瀬は最初ぎょっとした顔をしたが、すぐ翻(ひるがえ) し階段を駆け上ろうとした。そこで六郎は後を追い、13年来の仇一瀬に向かって、父の遺愛の短刀を突き立てた。引き抜いてはもう一度刺した。それから頸動脈を切断して 一瀬が絶命したことを知ると、六郎はゆっくりと館をでた。騒ぎを聞きつけ二階の窓から、たまたま六郎を知っていた者が「六郎、何をしたのだ!」と問いつめ たが、img_0六郎は、「邸内を騒がせ誠に申し訳ない。多年の恨みを御邸で引き起こした事について深くお 詫び申し上げる。」と深々と一礼し、門前の人力車に乗って警察に出頭した。この知らせを郷里の秋月で聞いた六郎の祖父遊翁は、垣根を飛び越えて隣家に駆け 込み、「六郎がやった! 六郎がやった!」と叫び、「今日は我が生涯最高の日じゃ、生きてて良かった。」と泣いたという。明治6年(1873年)2月7日、既に「仇討ち禁止令」が 発布されていた。当然六郎も罪人となり、長期の裁判は10か月係り、刑は終身刑であった。判決文は六郎の気持ちを十分に汲んだもので父親の冤罪もそそがれて六郎には満足なものだった。すなわち、明治政府下で裁判所職員が裁判官を殺害した殺人罪であるが、『仇討』として認められたのである。六郎は“復讐手続書”と題して、仇討ちに至った経緯を文章にしたためており、そこには 「国の法律を破って乱れを起こす事はまことに心苦しいが、自らの手で下さねば心は癒えなかった」との気持ちを書いている。

44a6832cindex hhhgfd模範囚だった事もあり、帝国憲法発布の祝典により、罪一等を 減ぜられ、明治24年9月、獄中生活約10年で32歳で釈放され、出獄に際し、武士の誉れと盛会な慰労会があったと言います。右は出獄後の写真

明治38年に48歳でいゑという28歳の女性と結婚、その後六郎は、門司の饅頭屋を経て佐賀県の鳥栖駅前で仕出し参照記事屋(鉄道の待合所とも)を営んだりしていたが、大正6年(1917年)11月(9月とも)病死。墓は ふるさと秋月 の「古心寺」の両親(簡堂というのが臼井亘理の号で、清子はその妻)の墓の側に作られた。享年60歳。

62eb187e 山 岡鉄舟:左 は我が弟子の快挙を讃え獄中に何度history_1も差し入れし、義挙と讃えた書き付けも残っている(鉄舟は六郎の釈放を見ることなく、明治21年(1888年)53歳で皇居のほうを向き、座禅の姿で座したまま胃がんで絶命する。エピソードとして、生涯「木村屋のあんぱん」を好み、天皇にも献上し、木村屋の大看板の文字も鉄舟の筆になる。写真右)。また、六郎の釈放祝賀会には自由民権運動の大井憲太郎(大阪事件で服役した事のあるクリスチャンで弁護士、社会運動家)も出席 し「仇討ちは法的に禁止されているが、武士道の真髄であり悲願を達成し、釈放されたことはめでたい。」と祝辞を述べている。六郎本人は、出獄後「できることなら、自分も一ノ瀬の家族に討たれたい」と語ったという。映像記事:日本最後の仇討ち~秋月藩士族・臼井六郎、明治に散った武士の魂

父:臼井亘理うすい わたり:文武に優れ、特に陽明学を修めて江戸に遊学し尊皇攘夷の思想を身につけた。 明治元年(1868年)、臼井亘理が藩命で京にいた時、王政復古・大政奉還の詔が出る。京で幕府崩壊の近いことを感じた亘理は、「藩のためには朝廷側についた方が得策」 と考えるようになり、それに沿って行動していた。 これを変節と見た一派は、藩主へ臼井亘理の行状を悪し様に報告。亘理にはわけが分からないまま藩邸への出入りを禁じられ、やがて藩主の命で秋月(筑前国 夜須郡)への帰郷を 言い渡される。 1868年5月の始めに京を出て秋月へ戻って来た亘理は、帰郷を聞いて駆けつけた親戚・縁者・同士たちとその晩しこたま酒を飲んで眠りこけ、5月24日未明、野鳥(筑前国夜須郡秋月庄野鳥村:福岡県朝倉市(旧甘木市)秋月町野鳥)の 自宅で反対派急先鋒の千城(かんじょう)隊士数名に襲われ、亘理と横で寝ていた妻と幼い妹が殺された(妹つゆ3歳は負傷の資料もあり)。この千城隊は、幕 府体制維持(佐幕または左幕)にこだわり、後の秋月の乱(1876年:明治9年):右の絵 を起こした秋月党の母体で、暗殺の際直接手を下したのが隊士の一瀬直久(旧名:山本克己、または暗殺時は山本道之助だったとも記述がある)だった。参照記事 青春の城下町 参照記事 参照記事 

42cc56damiyazaki1876年(明治9年)10月,新政府の廃刀令を機に熊本の神風連が蜂起するや,同志磯淳,実弟今村百八郎,益田静方らと秋月の乱を決起し、約250名の首謀者とされた秋月藩士宮崎車之助(38歳):写真右 は、1876年(明治9年)11月1日、旧式な槍と刀で戦いを挑んだ豊津の戦いで新政府軍に敗北して江川谷栗河内(現・朝倉市大字江川栗河Screenshot(24))で同志6人と自刃した。自刃するとき、「西郷が立たねば駄目だ」と語ったというが、その西郷隆盛が挙兵した西南の役(1877年明治10年2月15日~明治10年9月24日)は、この3か月後のことで、これが日本での最後の内戦となった。6人の自刃に際し、一番若い宮崎哲之助が、兄車之助をはじめとする先輩6人を介錯し、自らも切腹後首を斬るという凄惨な結末であったと記録されている。参考記事:西南戦争概説 青春の城下町青春の城下町青春の城下町
一般に明治維新はこの西南の役を以って終期を迎え、政治的・経済的な近代的発展はここから始まったと言われるが、別な見方をすれば、明治13年(1880年)の最後の仇打ちでやっと武家社会から脱却したとも言えるだろう。参照記事 Vengeance名詞復讐; 仇討ち; 敵討ち


nappi11 at 12:42│Comments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

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