2011年10月
大紀元日本語と中国語から抜粋
2010年12月、中国河北省邯鄲市在住の25歳の男性高兵強さんは、全身のだるさや顔のむくみで複数の病院で検査したところ、尿毒症で、同時に左腎臓(kidney:腎臓。腎臓移植:kidney transplant)が無くなっていると診断された。
彼は2004年に交通事故で負傷したため、邯鄲市の邯鄲市第一醫院で腸の縫合手術を受けたが、そのとき、医者は密かに彼の一つの腎臓を摘出し、それにより、彼は尿毒症を患ったと主張する。しかし、病院はそのことを認めようとせず、彼は重要な証拠はすでに入手し「皆さんの助けと法律の保護を切に願っている。」と2011年9月24日、インターネットを通じて訴え、7年前受けた人生唯一の手術で左腎臓が盗まれたと確信し、その病院を相手に2011年10月20日裁判を起こした。高さんの親戚の1人は「私たち庶民は大病院に勝てるわけがない。争いになると、負けるのは私たちに決まっている」とつぶやいた。
2004年の入院当日に、邯鄲市第一医院は腹部B超音波検査を行った。報告書には「両腎の形、位置、大小は正常である」と記され、翌日の手術前、二回目のB 超音波検査の結果報告には「右腎臓6.0×4.2cm、左腎臓5.9×4.2cm。形は正常、集合系統正常」と記されている。
しかし、2011年、中国解放軍285医院の腎臓内科の孔令恩主任は、記者が持ち込んだ高さんのCT検査の写真を見てこう断言した。「左腎臓は完全に無くなっている。絶対に萎縮したのではない。どんなに萎縮しても必ず組織が残る。CTとB超音波では必ず確認できるはず」
一方、今年病院側は、腎臓が無くなったのではなく、病気により萎縮したとの一点張りで、同医院の所轄課長・張氏は記者に対して、「権威のある機関が、高さんの手術の傷口が唯一つであることや、腎臓が切除されたこと、または当時の腸縫合手術により腎臓が萎縮して消えたことを立証できれば、我々病院は責任を負う」と答えた。この裁判は終わりなき戦いになりそうだと記者は書いている。
元記事には腎臓を知らないうちに抜き取られた事例が多く書いてあり、この病院が抜き取り、闇で売買した事は明らかだろう。それにしても、以前の治療費の負担で借金だらけで、動きの取れない患者が自腹で証明するしかないとはあまりに悲惨だ。最近北海道の大手ホテル、リゾート開発の加森観光(㈱)が、中国富裕層を相手に医療とホテルを融合したビジネス計画を発表したが、自国で治療したくないという人が居ても不思議ではない現実が中国には存在する。
アメリカの年間平均走行距離15,000マイル(約2万4千キロ)に対し、彼の1年間の平均走行距離は62,500マイル(約10万キロ)。保険会社の査定担当として14年間に渡り州内を飛び回った結果だが、違反切符はたったの1枚という。メンテナンス・マニュアルのスケジュールを守り、リキッド類(オイルなど液体潤滑油)は毎週チェックを怠らず、少なくとも1年に1回は全て交換。エンジンオイルは 5,000マイル毎に交換し、季節により種類を変える。オイルやエアー、フィルターなどは純正ホンダ製に固執。ブレーキオイルも数年で交換、また、ガソリ ンタンクを空に近い状態にしたことがないという。彼は保険会社に勤務するまで、18年間も車の修理工として勤務た経験で、燃料ポンプ、冷却ファン、ラジエーターなどの部品は自身で2回交換している。メンテナンス記録は細かく取られており、証拠になる走行距離計などの画像は661枚に及ぶ。参照記事 参照記事英文 左はプレゼントされた新車 YOUTUBE映像
自分も30万キロ走っている(車種はゴルフディーゼル1600cc、1991年製)が、上には上があるものだ。走行距離の多い欧米では、ユーザーは長く乗れることを非常に気にする。彼のメンテナンスへの気配りもすごいが、この記録はホンダにとって何よりのコマーシャルで、新車1台以上の価値だろう。20年も乗れば部品の入手が難しくなるが、いつまでも走ってもらいたいものです。こちらのYOUTUBE映像 では、街をあげてのパレードの様子が写っています。小さな町の英雄のようですね。車を馬のように愛するアメリカならではの映像です。車に対する文化が日本と違うな、うらやましいです。せっかくの車検制度も、整備工場は車検が通ればいいという扱いで、黙っているとさび処理も何もしない。車の維持に関してはダメな国になってしまった。
2011年10月29日午前11時半頃、首都カブールの南西でトヨタの車両による自爆テロが起き、燃料トラックの一団が炎上、さらに通行中の軍用バスが破壊され、同乗していた国際支援軍の米国軍人、技術者、カナダ軍人など13人が犠牲になった。最近では最悪の自爆テロ被害。
タリバンから犯行声明が出ており、最近は安全なアフガン北部が攻撃されたり、南部カンダハルでもタリバンの攻勢が相次ぎ、また首都カブール近郊への攻撃も相次いでいる。
アフガン政権への治安移行に対し、カルザイ政権の汚職等内部腐敗や統制の乱れに先行きを不安視する声が多いなか、米政府は、パキスタン北西部:右の地図パキスタン内ピンク色の地域(主に南北ワジリスタン地域か?)にタリバンの聖域、避難地域があり、それをパキスタン政府が容認し、またそこを拠点にするハッカーニ過激組織をパキスタン軍が支援していると激しく非難している。カルザイ政権が進めるタリバンとの和平は、要人の暗殺などで暗礁に乗り上げた状態で、アフガンの安定は遠のいているように見える。 参照記事、映像 YOUTUBE映像
アフガンとパキスタンの対立鮮明化? 宗教、部族問題複雑化 パキスタン アフガン
2011年10月28日のYoutube映像 過去ブログ: タイに女性首相誕生
2011年10月29日:タイは、北部、バンコクの住民救出のため、米軍に軍用ヘリコプターの出動を要請し、ペンタゴンは状況視察の準備に入った。軍用ヘリはバンコクの南、Laem Chabang港近くで、タイ側の要請ですでに6日以上待機している。今まで浸水の無かった都市中心部では現在集団避難が起きている。28日にはタイ銀行が、経済成長が4.1%から2.6%への後退を予測した。世界的にはこの洪水で、車部品、コンピューター部品の供給に影響が出ると言われ、再開の目処が立っていない。トヨタ、ホンダ、レノボ、アップルなどへの影響は避けられない見通し。
チャオプラヤ川の水位は、10月29日午前9時9分(日本時間同11時9分)に最高になり、予想よりは低かったものの水位は一部の堤防(2・5メートル)を上回り、東岸側の王宮周辺が冠水しているほか、西岸側でも浸水地域が広がっている。
日本政府は一部タイ人の特別滞在を検討しているが、これは日本企業向けへの生産物のうち、タイでしか作っていないものがあり、人材を日本に移して生産する必要から。29日の英国紙報道、写真
右の、法廷で半泣きの元市長の犯罪は半端じゃない。知り合いの企業から内部情報を得て、夫、弟とその嫁、妹等家族ぐるみのインサイダー取引で、1983億2350万元(約2兆3700万円)もの利益を得た。さらに、 2006~2010年の期間に官僚、市長の立場などを利用して市職員の昇進や子女の裏口入学に口利きをし、判明した分だけで総額にして40万香港ドル(約390万円)と10万 元(約120万円)のわいろを受け取った。
裁判で受けた刑罰は、インサイ ダー取引および情報漏えいの罪で懲役6年6カ月、罰金2000万元(約2億3900万円)。賄賂を受けた罪では懲役6年、10万元(約120万円)の資産没収に処された。
この判決内容に不服を見せ、「他に似たような罪を犯した人たちよりも判決が重い」「(一部罪状について)自首し たのに」「罰金は何の基準で算出したものなのか?」と叫び、すすり泣きながら「わたしは骨の髄から共産党を愛している。わたしにもいいところは たくさんあるのに」「わたしは自らの過ちを十分に後悔している。必ずやしっかり更生して早く社会復帰する。信じてください」といって、裁判官らに酌量を求 めた。参照記事より抜粋 中国語参照記事
金額の規模が想像を絶するが、2003年から2010年までの8年間で中国による武器の輸出総額が65億6000万ドル(約4977億円)だった事からも、市長の得た違法な利益の規模のすごいのが分かる。過去の記事では、これに連座して10人ほどが起訴され、汚職の多い中国でも大事件のようだ。
この事件後、2010年1月8日、共産党中央は「中国共産党党員指導幹部廉潔政務の若干の準則」で「職権や職務上の影響を利用して不正な利益を謀ること」など8方面で党員指導幹部に52の禁止事項を発行し、2010年5月26日には中共中央弁公庁と国務院弁公庁が「指導幹部の個人事項の報告に関する規定」通達した。同5月、最高人民検察院は「重大な贈賄犯罪への調査・処罰の一層の強化に関する通達」、中共中央弁公庁と国務院弁公庁は「指導幹部の個人事項の報告に関する規定」と「配偶者と子女が共に国(境)外に転居した国家公務員への管理の強化に関する暫定規定」を通達と、あわただしく規制と罰則強化を打ち出した。
上の写真は、オーストラリアのパースに住む子供写真家 Richard Barryさん44歳の写真で、インターネットでの写真コンテストで1位になりました。写っているのは、生後8日のマチルダMatilda ちゃんと生後5週間のチワワの子供たち。チワワは全部で7匹でしたが、3匹は寝入ったあと写真の構成上別な場所に移されました。このショットを撮るのに部屋を暖め、活発なベイビーたちが同じタイミングで寝るのを待ち、撮影には5時間かかったそうです。この最高のショットが撮れた直後に子犬が目を覚まし撮影は終了しました。 参照記事
2011年10月26日:カダフィの遺体は、シルトで死亡した四男の息子 Mutassim 、前国防大臣のAbu Bakr Younisと共に2011年10月25日未明、質素な木棺に納められた上、新政権側2名によってサハラ砂漠のどこか、非公開の秘密の場所に埋葬された。検死解剖もされず、サハラの狂犬の最後は、まるで犬の遺骸を処理でもするかのような扱いだった。YOUTUBE映像 カダフィの写真集By USA Today
2011年10月27日:打倒されたリビアの指導者カダフィ大佐の故郷の町シルトで、カダフィ側と思われる267体もの遺体が発見された。大部分は銃殺されたもので、市郊外に埋葬されていた。国民暫定評議会の代表達は、この件について調査し、犯人を処罰すると約束した。写真右 参照記事
予想されていた事が現実となってきた。戦争の混乱から、無法地帯と化したリビアで、復讐と思えるカダフィ軍の虐殺遺体が次々と見つかり、野放しな武器を持ったギャング集団が、NTC新政権のスローガンを叫びながらカダフィ寄りだったAz Zawiyehなどの地域の住人を殺害し略奪を繰り返していると報告されている。その地域の男性は「これは革命でもなんでもない。新しい権力の復讐だ」と語っている。参照記事
右下は廃墟と化した近代的な街だったシルト。破壊され、住居からは全てが略奪されている。参照記事 過去ブログ:リビア再建に各国始動とまとめ リビア(34)
リビア内の混乱で、携行ミサイル5000発など多くの武器が不明になっている。対カダフィで歩調をあわせた各組織、地域部族が反政府テロや反抗するのは必至だろう。新政権に参加できない軍人、秘密警察幹部が反新政権で動き出すのは時間の問題で、そのような動きも見え始めており、リビアの安定は不透明だ。カダフィの長男(あるいは次男とも)のSaif al-Islam Gaddafiは、リビア南部のNigerまたはAlgeriaとNigerとの国境付近、または北スーダンに居ると言われ、自ら国際戦争裁判所The Hague war crimes court.への出頭のため、飛行機を要求している。父親のような最期は迎えたくないと言う事だろう。カダフィ、息子の死に疑惑、再調査 リビア(33)
彼は、ドイツ語を話すポーランド人で、第二次大戦中にレジスタンス活動に参加した疑いでドイツ軍に捕まり、1940年の春、19歳で悪名高い絶滅収容所「アウシュビッツ強制収容所Auschwitz concentration camp」に送り込まれていた。囚人番号243番として、、。
1944年7月、23歳の彼は収容所内での比較的恵まれたポジションを利用して、囚人番号29558番と共にこの収容所から脱走するという離れ技を演じのけた。
腕に29558と刺青されていたのは、この収容所で彼が恋した ユダヤ人のCyla Cybulskaさんで、彼女の両親、二人の兄弟、妹もドイツ軍に捕まり、1943年にポーランドの収容所に送り込まれていた。妹と両親はすぐにガス室に送り込まれ、彼女と兄弟は強制労働を強いられていたが、1943年9月には、家族で生き残ったのは22歳の彼女だけになっていた。(写真:アウシュビッツ)
彼の燃え盛る恋心は大胆にも、収容所からの脱走という一見無謀な計画に火をつけた。
彼はドイツ軍の制服の保管倉庫に勤務していて、密かにSSナチス親衛隊員の制服を手に入れていた。その制服でナチス隊員に成りすました彼は、尋問の為と偽り彼女を連れ出し、眠そうなSS警備兵の前をすり抜けて収容所の脱走にまんまと成功する。自由の一歩を踏み出したとき、撃たれる恐怖に背中に痛みを覚えた程だったと、去年のインタビューで当時の心境を語っていた。
1週間以上二人は、昼は野山に隠れ、夜に行動し、やがて彼の伯父の家にたどり着く。その後彼は自分の家の在ったポーランドのクラクフKrakowに向かい、彼女は農家の家族に匿われることになり、結果的にこれが二人の、永遠とも思われた別れとなってしまった。
彼はその後ポーランドのノヴィ・タルクに移り住み、家族を持ちスクールバスの管理職で働いた。彼女はその後、ユダヤ人のDavid Zacharowitz氏と結婚しスウェーデンに移り住み、その後ニューヨークへ生活の場を移した。1944年の大胆な脱走から、二度と遭う事のないと思われた二人は、思いがけない急展開で再会する。
1982年、彼女が洗濯をしてくれるポーランド人の女性に、過去の脱走の話をしたときだった。女性は、同じ話をポーランドのTVで見聞きした事を思い出し、彼女に告げた。女性の助けで、二人は1983年、ポーランドのクラコフ飛行場Krakow airportで劇的な再開を交わした。(写真)その時、彼の手には、39年間の会えなかった思いを込めた39本のバラの束がしっかりと用意されていた。
彼女は2002年にニューヨークで亡くなったが、彼は二人の娘、4人の孫、ひ孫一人に囲まれ今年10月まで生きていた。現在ニューヨークに住む娘 Alicja Januchowskiさんは、父の死を新聞で知り、「彼は自分を英雄なんて思っていなかったが、でも彼は正にそうでした」と語った。カソリック教徒だった彼の葬儀と埋葬は2011年10月24日ノヴィ・タルクで行われた。
過去ブログ:2009年10月アンネ・フランクの唯一の動画とその最後 レジスタンスのヒロイン、ナンシー・ウェイクさん98歳で亡くなる 90歳の元ナチス警備兵とSS 英国 ヒトラーの愛犬と、他の話 ヒトラーはユダヤ系!
2011年10月25日、中国四川省甘孜自治県(かんし)Ganzi in Sichuan province 甘孜寺(かんし、カンゼ・ゴンパ:右下)で、38歳のチベット僧侶(左下)による今年10人目の焼身自殺が確認されたが、地域の行政、警察はこれについて言及せず生死の確認も公表されていない。1950年に中国がチベット自治区として実効支配を開始し、1959年大暴動、北京オリンピック前の2008年3月には、宗教弾圧、圧制に対し大規模なラサ暴動が起き、死者を多く出している。参照記事英文 参考年表 参照記事 過去ブログ:またチベットで僧侶の焼身自殺 チベット(18) チベット史(4)開放?これが。
2012年1月9日:中国四川省のアバ・チベット族チャン族自治州において6日、チベット族僧侶と住民の2人同時に焼身自殺を図る事件が起き、僧侶が死亡した。昨年から中国政府への抗議で12人の僧侶や尼僧、元僧侶らが焼身自殺を図ったのに続き、今年に入っても対立が続いている。 ドイツ政府系メディア「ドイチェ・ベレ」の報道によれば、6日午後、同自治州アバ県の重要寺院・キルティ僧院の付近の路上でチベット人2人が焼身自殺を した。2人のうち、僧侶は即死し、もう1人の重傷を負ったチベット族男性は軍警察に運ばれ、行方が分からなくなったという。
中国でもその道徳心の無さに議論が沸いたとあるが、急に変わるとも思えない。
中国内には長年の思想教育や拝金主義が原因で、19人目の女性は偶然まともな教育を受けていないので、思想教育が邪魔せず助けたのだというコメントもあったが、目の前の危険を避け、傷ついたものを助けようとするのは教育以前の問題で、それをしてはいけないと言う教育や思想など存在するわけがない。動物でも本能的に行う事だ。単純に、個々の人間が利己的で、わがままで身勝手だと言う事で、教育以前に、社会で生きていくうえの相互扶助の精神やエチケット(礼儀作法)に欠けていると言われても仕方ない。
今度のこの2011年10月25日報道の別な交通事故は、大型ダンプが5歳の男の子をひき、さらにバック、前進してひき殺したと言うもので、殺そうとした事は運転手が否定しているが、周囲からは入院費より死んだほうが安く上がるから殺そうとしたと言われている。
場所は中国西部四川省 瀘州市瀘州市(ろしゅう-し Luzhou)付近で、運転手Ao Yongのダンプが、学校帰りのXiong Maoke 君を跳ね、目撃者によれば、ダンプはバックした後前進し、その際少年は前輪に巻き込まれ,ダンプはさらに9m程前進したと証言している。
車から飛び降りたドライバーを目撃者が非難すると、運転手は「いくら払えばいい?」と問い返してきた。少年はこの事故で亡くなり、事故直後、集まった村民が激怒し、現場で補償のことを切り出したため、少年はすぐに救出されず、母親は少年の傍で泣き崩れている。写真のダンプの前で椅子に座っているのが母親で、モザイクで隠してあるが、少年の遺体はまだ前輪の下にある。民事訴訟が困難な中国では、現実には被害者、加害者双方が対立し、交渉で金額が決まるのがほとんどのようで、余程の事が無ければ訴訟にはならない。
先の事件では2名の運転手が刑事罰の対象になった。歴史はまだ5~6年と浅いですが、中国にも車両所有時の強制保険は存在します。しかし、ニセ物の証書も多く出回っているという事実も有るようです。また、補償金額は被害者の地域の平均所得から計算され、当然農村部での命の値段は相当安くなります。 参照記事
このロシアのネコちゃん、飼い主の「家に運んで!」の言いつけに、一生懸命ビニール袋に入った買い物を自宅まで運んでいます 動画映像
そういえば、ネコのサーカスの在るのもロシアですね。モスクワに「猫の聖堂」2012年オープン予定
我が家のフー(白)とミー(黒)、「何もしないネコ」、これはこれでいいでしょう。性格がまったく違う二匹ですが、今日も元気に過ごしています。ちょっと前に大ゲンカしましたが、先にいつも「ケンカ止めようよ」という態度を取るのはフーのほう。悪いのはミーなんですが、さすが兄貴です。
英国に住むAnnette Townendさん55歳は、自分の母親Sheila Smithさん 82歳が肝臓や腎臓を患い入院している病院の医者から「このままではあと数日の命です」と宣告された。
しかし病院の看護は杜撰で、食事の世話もトイレの面倒も十分にしてくれず、時には母親が床に倒れたまま放置されていた事も在った。
母親を心配した彼女のとった行動は、密かに高齢者のケアをする専門スタッフを雇い、身内を装うため私服で付き添わせ看護させる事だった。実は彼女も癌の病気で、同じ頃、同じ病院で薬物療法を受けていたのです。1日2時間3回、計6時間の看護で、治療と平行して流動食、さらには密かに彼女が用意した食事などを与えた結果、母親は9日目に無事退院する事が出来ました。費用は1000ポンド、約12万円掛かりましたが、あのままでは母親は亡くなっていただろうと彼女は語っています。この「変装した看護士」には、以前この行院で働いていた人もいて、その人も病院の杜撰な看護環境に驚いたそうです。
同じ病院には高齢者で痴呆を患った人も多かったと在るので、高齢者向けの病院だったのでしょう。単純に英国の医療予算の不足だけとは言えないにしても、スタッフ不足で患者一人一人に満足な手当てのできない現実があるようです。日本でも起きつつあることで、気になった最近の英国のニュースです。写真では、今お二人とも元気なようです。 参照記事
10月31日はハロウィンHalloween。死者の霊が家族を訪ねたり、精霊や魔女が出てくると信じる人もいます。この時期に、アメリカのマサチューセッツ州のセーラム Salem Massachusettsに世界中から魔女たちが集まるという。
ハロウィンの時期になると、街角や住宅には様々に加工されたパンプキンが置かれたり、レストランやデパートはパンプキン一色に装飾されます。ニューヨークではハロウィン当日は思い思いに仮装した子供たちが「Trick or Treat(トリック・オア・トリート)」つまり「キャンディーをくれなければいたずらするぞー」とドアをノックしてまわります。大人たちも、手の込んだ衣装に身を包み、恒例となっているパレードに参加したり、バーなどににぎやかに集ったりします。
そんな中、マサチューセッツ州のセーラムMassachusetts、 では、世界中から魔女が集まるということで、2、3ヶ月も前から小さな町が観光客などで溢れかえります。街中のいたるところで魔女 らしき人を大勢見かけ、薬草を煎じたり、タロット占いをしたり、さまざまな魔術?を披露してくれます。母親が魔女だったから私も魔女なのという人 もいて、驚いたことに薬剤師と魔女を兼業しているという女性もいるそうです。(連行される老婆)
なぜ魔女たちがマサチューセッツ州セーラム の街に集まるかというと、1692年に当地で魔女裁判Witch Trialsが行われたからで、当時、医学では解明できなかった病気や、水疱瘡などの感染性のある病気が流行しましたが、人々があまりに恐れるので議会は魔女のせいだと裁判を開き、疑いのかかった約200人以上が裁判を受け、 男女20人 を死刑に処した記録がセーラム魔女博物館に残っています。不治の病が蔓延したことと、カリブから奴隷として連れてこら れた女性たちの信仰などが拍車をかけ、魔女疑惑が広まったそうです。小さな街の人々の恐怖心、噂がつくりあげた恐ろしい出来事ですが、そんな歴史的背景も あって自称魔女たちがセーラムの街に集まります。
セー ラムは小さな街ですが、街をあげてハロウィンのイベントに取り組みます。魔女裁判や処刑が行われた場所、廃墟になった病院、牢獄などを夜間にまわるツアー などが大人気で、参加者はカメラを片手に心霊写真を撮ることに熱中し、ツアーガイドはどれが心霊写真であるか分析もしてくれます。暗い過去を背負いなが らも、エンターテイメント性を加え歴史を後世に伝えています。参照記事より抜粋
当時200名近い村人が魔女として告発され、19名が処刑され、1名が拷問中に圧死、5名が獄死したと記録されている。圧死したのはジャイルズ・コーリー(Giles Corey、1611年9月11日 - 1692年9月19日)で、妻と共に魔女として告発され、彼は魔女を追い出だす、または自白を強要され3日間石を載せられた為圧死したとされている(右下)。
先に記述した息子ジョージ・ジェイコブス・ジュニアも、起訴されるも、逮捕を逃れた。義娘と孫娘マーガレットも起訴されている。"Trial of George Jacobs, August 5, 1692":左下。彼の墓には、最後の彼の言葉か「さー、自分を焼くか吊るせ。自分は(自ら)キリストの真実の前に立とう」と書かれている。自分は潔白だから死を恐れずキリストの下へ行く、という意味だろうか?参照記事 参照記事 過去ブログ:ハロウィンで自動小銃乱射 少年死亡
中国墓誌研究の明治大の気賀沢保規教授(中国史)によると、論文は吉林大古籍研究所の王連竜氏が学術雑誌「社会科学戦線」7月号に発表した。祢軍 (でいぐん)という百済(くだら)人の軍人の墓誌で1辺59センチの正方形。884文字あり、678年2月に死亡し、同年10月に葬られたと記されてい る。
隋から変わった唐(中国)と新羅に侵略を受けた百済は日本に助けを求め、日本は朝鮮半島に出兵したが、663年に白村江(はくそんこう、はくすきのえ)の戦いで唐・新羅(しらぎ)連合軍に敗れる。その後の状況を墓誌は「日
本餘●(●は口へんに焦) 拠扶桑以逋誅」と記述。「生き残った日本は、扶桑(日本の別称)に閉じこもり、罰を逃れている」という意味で、そうした状況を
打開するため百済の将軍だった祢軍が日本に派遣されたと記していると気賀沢教授は説明する。参照記事
660年、唐(中国)は新羅と手を結び、百済に攻め入り、同年7月、百済王は捕らえられ百済は滅び、百済の遺臣(いしん)は倭(日本)に百済の滅亡を伝えるとともに、救援軍の派遣を日本に要請してきた。
百済への派兵は2回行なわれ、1次軍は661年に海を渡ったが、大きな戦果は得られなかった。2次軍は663年の2万7千人から成る大部隊で、兵士の動員は西日本だけでなく、東日本にも及び、国家的な戦時体制が敷かれ、百済救援軍(2次軍)は8月、錦江(きんこう)河口の白村江で、唐・新羅の連合軍と衝突します。戦闘は4度にわたり繰り返され、663年この戦いで倭の水軍は大敗北をし、これが白村江の戦いです。
その時、倭の軍は百済の亡命貴族を伴い九州に退却するが、このとき百済王一族の一部が日本に亡命し、大阪府枚方市に残る「百済王神社」はその名残り。白村江の戦いで敗退した後、大和朝廷は朝鮮半島における足がかりを失い、また、唐または新羅が倭に攻めてくるかもしれないという危ない状況に陥り、この後、唐の攻撃を防ぐため防人(さきもり)が九州に派遣された。 参照記事 加筆
Libya has turned a new page on its history.. We hope Libya will establish an inclusive political transition process as early as possible to safeguard Libyan national solidarity and unity, 右写真は、リビア情勢を読む中国人
中国は、国連の常任理事国五カ国の中で最後にリビア新政権を承認した。カダフィ政権崩壊により、利権獲得レースで欧州に出遅れた中国は物量作戦を展開。10月15日までに、コメや食用油、医薬品など130トン以上の支援物資がトリポリに届けられた。今月上旬、リビア産の原油95万バレルを積んで出港したタンカーが中国に向かう可能性が報じられた。ただ、反カダフィ派の新政府が、カダフィ政権の結んだ契約について改めて精査することを示唆しており、中国政府は今後、石油利権確保に向け、さらに反カダフィ派への接近を画策するとみられる。
紛争中の7月、中国はカダフィ側と武器密輸について協議した疑惑もあり、リビア国民から信頼を得るのは簡単ではないだろう。中国の焦りとリビアの中国外し(24) リビアと英国、日本、中国の関係(28)
日本は、リビアが新たな国造りをする際に、自国の知見や技術を活用しながらリビアを支援する用意がある。日本の玄葉光一郎外相は2011年10月21日、このような考えを表明した。リビア政府は、負傷者のための義肢支援を日本側に求めた。
ロシアは、リビアの国営石油企業(NOC)とカダフィ政権時代に締結されたロシアのガス大手「ガスプロム」社との契約についてリビアと討議する構えだ。リビア側が語ったところによると、すでにガスプロム社へは協議への招待状が送られ、ロシア側が中断している作業の見直しなどが協議される。
2011年10月23日;リビアに関して紛争を予感し、最初に書いた記事は2011年2月20日だった。2011年2月~アフリカ、中近東、反体制運動と シーア派スンニ派➀
その時はまだカダフィ軍の空軍も生きていてカダフィ政府軍のほうが優勢だった。しかし、驚く程の速さで国民の蜂起は拡大した。これはインターネット時代ならではで、兵士は携帯電話のツイッターなどを多用した。これが何よりも特徴的な出来事だった。
これを全土的な蜂起と捕らえた米軍の動きは早く、まるで待機していたかのように大型母艦が3月はじめには地中海に姿を見せ、すぐにリビア空軍の殲滅に乗り出し、英仏空軍もこれを支援した。同時に、米英仏の諜報員が相当乗り込み、これがリビア空軍、地上軍の動きを現地から発信し、リビアは制空権を早い時期に失った。その時は国連の地上軍投入も視野に入っていたが、反政府軍支援の方向でプログラムは書き換えられ、アフガン、イランからの撤退を決めていた米軍はリビアへの派兵はしなかった。当初の欧米の迷いから、武器や支援が遅れ、反政府軍には相当な被害が出ると同時に、カダフィ軍が民衆弾圧、インフラの遮断、虐殺を断行、これが反政府行動をより強固にしたといえるだろう。カダフィの誤算は、自国軍の内部からも多くの転向軍人、部隊の出たことで、これが紛争初期の大きな反政府行動の原動力になった。紛争は国連、NATO軍、米国の支援参入で「リビア戦争」になった。フランス、英国 リビアに攻撃ヘリ投入⑫ 米国オバマ大統領、リビアでの無人機爆撃を承認 リビア➈ リビア 国際軍空爆続行 英軍はカダフィ殺害を容認④ 戦争へ突入! 欧米対リビア 2011年3月20日未明(日本時間)➂
形勢が逆転してからはカダフィ軍には多くのアフリカ系傭兵が投入された。彼らの残虐行為がさらに民衆の怒りを買い、リビアにいたアフリカ系労働者が虐待され、国外逃避する事態も起きた。同時にカダフィ政権にどっぷりつかっていた中国人(多くは労働者)、中国企業が国外退避した。これもリビア戦争の特徴だ。中国のリビアでの損害5兆円超!利権も失う?⑱ カダフィの終焉近い⑭
1969年、若いカダフィが無血クーデターを起こし、アフリカでイスラム主義による社会主義国家を目指した。現在のキューバのような国家をめざし、同盟の主流は当時のソビエト、中国だった。その後の資源開発で、現EU諸国にも石油、天然ガスを供給し国家は順調に発展したが、独裁政権は次第にその欠点である権力の集中に傾き、国民の不満は募っていく。反政府的民衆にカダフィは国家警察、秘密警察を多用し、これが国民の不満を増大させた。国は富んでも自由が無い。これが戦争直前のリビアで、民衆の自由への蜂起だったとも言える。また、この戦争では多くのジャーナリストが命を落としているのも特徴的だ。英国人ジャーナリスト、ミスラタで死亡 リビア➇ 2011年2月~アフリカ、中近東、反体制運動➁ 2011年2月~アフリカ、中近東、反体制運動と シーア派スンニ派➀
一方、欧米の支援は豊富な資源と開発利権の保護獲得だったと言っていいだろう。今は、親欧米のNTC新政権が立ち上がり、結果的にその目的は達成できたと言える。ただしこの「資源戦争」の先行きは不透明だ。今後起きる国内問題があまりにも多いからだが、恐らく国連が多くの場面で介入していくだろう。これがうまくいけば、歴史的に国連が一国を自由解放に導いた最初の例になるだろう。この意味でもリビア戦争は歴史に残る戦争だ。新政権は2011年10月23日全土開放を宣言した。生前カダフィは、自分が死んでも、民衆の心の中に自分は生きると言っていた。またこの戦争で、多くの武器がアフリカのアルカイーダ系イスラム過激派に流れたと言われ、これが新たな脅威になる可能性がある。 死を覚悟したカダフィ大佐⑪ 「裸の王様」カダフィ大佐と新たな脅威⑬ リビアでの石油事業建て直し始まる(29) リビアと英国、日本、中国の関係(28)
この戦争の8ヶ月の記録は➀から、これを含め(34)にまでのブログ記事になった。過去記事は カテゴリ 「アフリカ オセアニア」から検索できます。直前の記事;カダフィ、息子の死に疑惑、再調査 リビア(33)
2011年10月24日:カダフィ氏に忠実なインターネット・サイト「セヴン・デイズ・ニュース」によれば、カダフィ氏が10月17日に自ら遺言をしたためたとされており、その後、3人の息子に送付されたという。遺言状のなかでは、殺害された時のままの服装(捕獲時は上下金色の軍服だったが上着は剥ぎ取られた)でシルトに埋葬するよう書かれているほか、NATOおよび暫定国民評議会に対して抵抗を続けるよう求めているという。現在彼の妻 Saifaと娘Aishaはアルジェリアに亡命中で、彼の死亡直後娘はカダフィに衛星電話で電話したが、出たのは新政権の兵士だった。兵士は娘に「今歳食ったチリチリ頭を殺したところだ。"We have killed old Bushufshufa (Frizzy Head).」と答えたと伝わっている。参照記事
10月23日時点で遺体はミスラタのスーパーの保冷室の床に置かれ、一部では、イスラム教は土葬だが、水葬の議論もされていて、リビアの新政府は遺体を身内に引き渡すつもりはないという。最近の調査で、カダフィの世界中の銀行に分散された財産は20兆円 $200 billionとも言われ、国際的な調査のあと、リビア復興資金に当てられる予定 参照記事
2011年10月26日:カダフィの遺体は10月25日未明、新政権側2名によってサハラ砂漠のどこかにシルトで死亡した息子と共に非公開の秘密の場所に埋葬された。検死解剖もされず、サハラの狂犬の最後は、まるで犬の遺骸を処理でもするかのような扱いだった。
埋葬以降もNTC新政権はカダフィの死は交戦中の銃弾によると主張しているが、新たな問題として、制圧後のシルト市内の廃墟のマハリホテルMahari Hotel から、カダフィ支持者と見られる53人の処刑遺体が見つかっている。国際人権機関はこれの正当性に疑問を呈している。左下は、ホテルの中庭の遺体。参照記事