2011年09月
彼は「当選の際は、懸命に働き、賄賂を取らず、強い決断力を約束する hard work, no kickbacks and a mulish determination」そうです。現職の市長Kiril Yordanov氏に対しての不満からのようで、擁立者のAngel Dyankov氏は、「彼は他の候補者や政治家とは違い、頑固なまでの気質を持っている。ネコババせず、ウソは言わず、しっかり仕事をする」と語っている。対立政党は「品が無い行いだ」と発言したが、これに対し擁立者は「確かにそうだ。だが、思っても見てくれ、マルコがどんな気持ちで、こんな不誠実な政治家と同じステージに立っているか」、、。マルコの方が誠実だとおっしゃりたい様です。
日本の選挙でも同じですね。ロバのように頑固に国民の声を伝える政治家はほとんど居ない。内部でつじつまあわせに右往左往するのが政治だと思っている。貰う歳費は、そのための活動費だと思っている。払っているのは国民なんだが、、。ポスターは、どうしても縦長になりますね 英語のロバDonkeyには、バカとか頑固者という意味がありますが、マルコ市長候補には失礼な話。多分、ある程度票が入るでしょう、、想像ですが。 参照記事
かわいそうに、ロバは昔からよくバカの代名詞にされる。ハインリッヒ・ハイネ(19世紀ドイツの詩人・作家、1797~1856)の言葉に「人のようにしゃべるロバは見たことがないが、ロバのようにしゃべる人は多く知っている。I have never seen an ass who talked like a human being, but I have met many human beings who talked like asses.」と言うのが在るそうだ。「ロバのようにしゃべる」とは、歯をむき出して笑いながらしゃべること、あるいは、相手を小馬鹿にした目つきでしゃべることで、下品な話し方をするということ。ロバのように話す人には警戒した方が良い。」と解説されている。誰とは言わないが、日本の芸能人にはよく見るパターンだ。
トンでもない事件だが、インターネットの中国人の書き込みが笑える。
「飛行機に乗ろうとすると、遅延かキャンセルに遭う。列車に乗ろうとすると、追突されるか乗務員に殴られ、殺される。バスに乗ろうとすると、道路の沈下や 崩壊に出くわす。車を運転すると李双江の息子にぶつけられ殴られる(最近起きた著名歌手の息子Li Tianyi 17歳の暴行事件を指す)。地下鉄に乗ろうとすると、進行方向を間 違えるか追突される。徒歩でも、李剛の息子(上級役人の息子が市民を轢いた事件)に轢かれる。仕方なく家にいると、今度は取壊し屋がやってくる」。ペンネームwawanyi1参照記事 中国語記事
中国の書き込みにはよくこういうのが出てくる。漢詩にもこういう、語句をそろえたり、繰り返しで文章にリズムを作る手法がある。内容は悲惨だが中国の様子が分かる。
鉄道部は批判をかわすため、死亡した男性は鉄道関連会社の職員であることを強調し、一般乗客として乗車していたという事実を揉み消そうとしたようだ。確かに人民日報の記事には短く「車内で鉄道乗務員の乱闘事件が発生、負傷した鉄道乗務員1人が病院に運ばれたが死亡した。「人民網日本語版」 2011年09月28日」と書かれている。この件に関して、目撃した乗客が連名で証言している。ニュース映像中国語
先の李双江の息子Li Tianyiは高級外車で、それも無免許で交通事故を起こし相手を殴り、取り囲まれると「俺は著名歌手李双江の息子だ!」と名のり、特権階級の傲慢な行為として中国国内で非難の的になっていた。その後、仲間と女性暴行事件を起こし刑事事件となり、2013年9月26日に懲役10年の判決を受けている。判決によると、Li Tianyi 17歳は2013年2月17日、仲間と北京市内のバーを訪れた後、バーが手配した女性をホテルに連れ込み、仲間と暴行した。少年らは事後、2千元(約3万2000円)を女性に渡していた。写真は、歌手の父親と母親、そしてバカ息子。参照記事
元IAEAの査察官で、現在は、米シンクタンク、科学国際安全保障研究所(ISIS)の所長を務めるデービッド・オルブライト氏は、放射性物質がろくな警備もされず放置されていたことに懸念を表明した。テロリストや核兵器の開発計画を持つ国家の手に渡る恐れがあるからだ。所長は「IAEAは早急に現地に赴き、紛失した放射性物質がないか確認する必要がある」と指摘した。カダフィ大佐支持派の拠点だったサブハは反カダフィ派によって2011年9月21日制圧された。現在、反カダフィ派の数十人の軽武装の兵士が貯蔵施設の警護を行っている。以上は2011年9月23日のCNNからの抜粋で、9月28日、アルジャジーラでも報道され、そこで映像も公開された。
場所はトリポリから800キロ南で砂漠の中の倉庫に、約1万本のドラム缶に入った核原料にもなる放射性物質がほとんど放置され、今は新政権側が監視している。これらは、リビアの核開発のナゴリだが、前後の流れを見れば、
2003年12月19日:リビア、すべての化学・生物・核兵器を放棄と発表、2003年12月20日:核関連計画の査察計画についてウイーンでIAEAと交渉開始、2004年1月6日:化学兵器禁止条約(CWC)加盟、2004年1月19日:包括的核実験禁止条約(CTBT)批准、2004年3月10日:IAEAとの保障措置協定の追加議定書に調印 参照記事
国際原子力機関のIAEAは「核の番人」とも言われるが、いくら色んな約定を取り交わしても、これでは何の機能も果していないと言えるのではないか?大量のサハラ砂漠のイエローケーキが爆撃でも受ければ、アフリカの人や自然に危険なのは容易に想像が付く。世界規模の核の管理が、早急に望まれる。リビア戦争関連過去ブログ:リビアと英国、日本、中国の関係(28)
2011年9月28日:すでに2週間攻撃しているシルトはまだ陥落せず、28日、郊外のシルト空港を制圧したとニュースが流れた。戦略的には重要だ。映像で見れるように、NATOの空爆、陸上の戦車、ロケット砲攻撃でもシルトのカダフィ軍の狙撃は衰えていないという。国連や救済機関は、シルト内部の食料不足による住民の二次災害を懸念している。
カダフィ大佐の消息は以前不明だが、西部アルジェリア国境に近いガダミスGhadamis near the Algerianに潜伏し、サハラの遊牧民ベルベル人のトゥワレグ族Tuareg tribesmen,に庇護されているとも言われている。
2011年9月30日:新政権NTCは、42年に渡るカダフィ政権が起こした殺人や誘拐に対しての報復行為が横行しているとして、その様な行為をしないようにとの新政権側兵士への説得に苦慮している。それと同時に、カダフィ軍の大量な兵器が市民に流れ、子供でも銃を持っている状況は今後の新体制構築に大きな障害になりそうだ。新政権側兵士の中にはいろんなグループが混在し、テロリストに近いイスラム原理主義者も交じり、また、地方部族には依然としてカダフィ擁護の部族長も存在する。参照記事
2011年10月3日:シルト市内の約10万の市民のために、NTC親政権軍は包囲中のシルトへの攻撃を49時間見合わせ、NATO軍は空からビラをまいて住民へ避難を促し、住民は車列を作って市内から逃避、それは10月20日日曜日も続いている。しかし、市内奥の一部住民はカダフィ軍に足止めされていると観測されている。すでに先週、シルトの飛行場、軍施設は新政権に制圧されている。
2011年10月7日:新政権軍がシルトへの攻撃を開始。数日前に攻勢に出たカダフィ軍に対する総攻撃の可能性が高い。写真右下 YOUTUBE映像
極寒の地でも、灼熱の地であっても、泥水につけても作動する突撃自動ライフル、カラシニコフ銃(初代はAK-47)は世界中にあふれ、1947年のロシアでの製造以来、ロシアだけでも1億丁以上を売りさばいたと言われる。今でもAK-47は世界中のギャングやテロリストが使用する代表的な銃で、いろんな国でライセンス生産や密造されている。
この銃のスタートは1916年ロシアが採用した フェドロフM1916 (右)で、その後これを見たドイツ軍が模倣して StG44 (突撃銃) (左)を開発。ドイツが降伏後、このStG44のドイツ人開発者 ヒューゴ・シュマイザー を拘束し、ロシアの ミハイル・カラシニコフ と設計(右下)、開発させたのが、フルオート射撃が可能な歩兵用自動小銃、カラシニコフ銃の誕生だった。ロシアの武器庫には、まだこの銃が数十年分備蓄されているようだが、新式銃への開発移行のため、早急に売却の予定だと言う。まったく迷惑な話だが、在庫分が大量に安く世界にばら撒かれるということになるだろう。
開発設計したカラシニコフ氏は91歳でまだロシアに存命で、この銃の生産中止を伝えればショックで自殺しかねないので、当面彼には知らせない配慮だとか、首をかしげる配慮だが、、。 参照記事 クイズの賞品は自動小銃 ソマリア
イズマッシュ社の工場はウラル山脈の西側で、ロシア連邦に属するウドムルト共和国の首都イジェフスクIzhevskに在り、工業用水確保のために作られた人工湖・イジェフスク湖の湖畔にあります。内部の紹介サイト2012年12月25日:旧ソ連のカラシニコフ自動小銃AK47の設計者として知られる ミハイル・カラシニコフ氏(93)が体調を崩し、25日までにロシア中部 イジェフスク:Ижевск, Izhevskの病院に搬送された。同氏の秘書らがインタファクス通信に語った。秘書がカラシニコフ氏の息子の話として明らかにしたところでは、持病の心臓病とは関係がなく、入院後に回復。本人は関係者に対し、「気分は良く、早く帰宅したい」と話したという。
2013年12月23日:12月23日、世界的に有名なロシア人銃器設計者のミハイル・チモフェーヴィチ・カアシニコフ Михаи́л Тимофе́евич Кала́шников 、Mikhail Kalashnikov氏が死去した。享年94歳。カラシニコフ銃を基盤に小型機関銃から自動装填式散弾銃「サイガ:SAIGA-410(410ga)」銃まで軍用、民需用あわせて150種の銃が作られた。カラシニコフ氏は老齢にも関わらず、活発に活動し、最後の日まで設計会社「イジマシュ」で働いていた。参照記事
それにしても、蝋人形のドラえもん?普通に人形置けば良いだろうにな、、。??
2011年9月28日の英国紙MailOnlineに裁判の経過や推移が報道されたが、詳細は膨大な量で、項目だけ列記する。過去ブログ:2009年8月マイケルの死は他殺だった?Jacko death WAS homicide
- マイケルジャクソンの専属医師Dr Conrad Murray氏;写真下 はロサンゼルスの初公判で麻酔薬の大量投与による過失致死 involuntary manslaughterで公訴された。
- 検察側は、死亡直後の担架に乗った写真を公表し、死亡一ヶ月前の音声テープで、彼がろれつの回らない状態だった事を公開した
- 医者は、彼の蘇生のため911(救急センター)への通報を遅らせたと告訴された
- (医師側)弁明では、マイケルジャクソンの死は自死(Jackson killed himself)だと無罪主張*注:マイケル自らによる、薬物プロポフォール (propofol)の過剰摂取の疑いのこと。
- 最初の証人の振付師 Kenny Ortegaは、彼はリハーサル中も正常では無かったと証言
- ツアーマネージャーの Paul Gongawareは、医師が年間5百万ドル(現在で約4億円弱、当時で6億円)の看護報酬を要求していたと証言
- 法廷には、マイケルの両親、他 siblings Janet, La Toya, Tito, Randy and Jermaine が参列した
先週末から、メキシコのインターネットで不気味な映像が流れた。黒覆面の集団が自称「マタ・セタスMata Zetas」を名乗り、これは英語で Zetas Killers、つまり、メキシコでその凶暴な事で恐れられている犯罪組織セタスを狙う殺人部隊と言うことで、ビデオでは「セタスの誘拐やゆすりでうんざりしている民衆を救う武装組織だ」とコメントを流し、「我々は名前も顔もない戦士だが、メキシコを誇りに思っている」「自分たちは一般人を誘拐したりゆすったりしない」と正義の味方を気取っている。どうやら、メキシコギャングにも「任侠」があるようだ。
どこの犯罪集団もこれに関しての関係を表明していないが、言葉やスタイルから、今年7月にビデオで流れた犯罪集団「Cartel de Jalisco Nueva Generacion en Veracruz またはCartel Jalisco Nueva Generacion:略称CJNG」と似ていると言われ、犯罪組織シナロアカルテルと関係する集団のようだと推測されている。名前を直訳すると「ベラクルスのハリスコ新世代カルテル」または「ハリスコ新世代カルテル」と訳せるので、太平洋岸ハリスコJalisco 州出身メンバーで、大西洋岸ベラクルスVeracruz州を拠点にするカルテルと言う事か?大西洋岸のベラクルスは、ここ最近セタスの支配地域となっている地域で、抗争事件が多発している。ビデオで見る限り、かなり重武装している集団のようで、マタ・セタスはその中から選んだ精鋭部隊とも取れる。当然、戦闘に慣れた退職警官や退役軍人が参加している可能性が高いし、過去の例から、現職警官と通じ情報交換している可能性もある。メキシコ麻薬カルテル勢力分布図 2011~ Drug Cartel in MEXICO
かつて、対セタス対策でシナロアカルテルとは同盟関係にあったラ・ファミリアから派生した、「テンプル騎士団」も同じような声明を出していたので、どこかで関係している可能性もある。日本的に言えば、「必殺仕置き人:英語ならエクスターミネーターExterminater処刑人」の登場と言う事だが、当然政府関係者は、この違法集団を認めていない。状況は異常だが、市民や警官の一部はこれを歓迎するだろう。なぜなら、告発して殺人鬼を捕まえても、この国に死刑が無いことで、報復を恐れて多くがいらだっているからだ。
あまりの犯罪の多さに、一部の国は国連の支援を求めている:3人目のブロガー殺害される メキシコ
リビアが以前の産出量に回復するには、2012年末か2013年初めまでかかると見られ、戦争前には日量160万バレルを産出し、これは当時の世界の産出量の2%に当たる。最近は国内事情の悪化から、内戦前の10分の1まで低下していた。イタリアより先に、リビア東部サリルSarir油田で事業を展開しているアラビアン・ガルフ・オイル(Agoco)の広報担当者が2011年9月14日、日量16万バレルの生産をして、パイプラインへの輸送を始めたと述べている。参照記事 参照記事
石油輸出国機構(OPEC)は9月12日、生産量は6カ月以内に日量100万バレルに達する可能性があるとの見通しを示したが、国際エネルギー機関(IEA)は13日、生産量は来年末までに110万バレルになると予想した。リビアの石油輸出が途絶えたことで原油市場は混乱状態となり、サウジアラビアは一方的に生産を増やし、消費国は備蓄取り崩しを決める事態になっていた。過去ブログ:リビアと英国、日本、中国の関係(28)小野田少尉の見た慰安婦問題:保存資料
私が見た従軍?慰安婦の正体 『 正論 』 平成十九年一月号より
首相の靖国神社参拝や従軍?慰安婦の問題は、全く理由のない他国からの言いがかりで、多くの方々が論じているところだ。南京大虐殺と同様多言を弄することもあるまいと感じていたのだが、未だに妄言・暴言が消え去らない馬鹿さ加減に呆れている。戦後六十年、大東亜[ 共栄圏 ]戦争に出征し戦場に生きた者たちが少なくなりつつある現今、私は証言として、「慰安婦」は、完全な『 商行為 』であったことを書き残そうと考えた。外地に出動して駐屯する部隊にとって、治安維持と宣撫工作上最も障害になる問題は、兵士による強姦と略奪・放火である。そのためにどこの国もそれなりの対策を講じていることは周知の通りである。大東亜[ 共栄圏 ]戦争時、戦場には「慰安婦[ =売春婦 ]」という言葉は確かに存在した。当時は公娼が認められている時代だったのだから至極当然である。野戦に出征した将兵でなくとも、一般に誰でも『 従軍 看護婦 』と言う言葉は常識として知っていたが、「従軍?慰安婦」と言う言葉は聞いた者も、また、使った者もいまい。それは日本国を貶[おとし]める為に後日作った造語であることは確かだ。淫らな言葉だが、中国戦線では「ツンコ・ピー」「チョウセン・ピー」と呼んでいた筈[はず]であるが、他の人の見ている所でする筈のないことだけに、「慰安所」のことも「慰安婦」のことも、公の場で自己の見聞を正確に発表する人が少ない。
あまり詳しいと「よく知ってるね」と冷笑されるのが落ちだろう。では何故、君は、と私に聞かれるだろうが、幸い私はその実態を外から観察出来る立場にあったから、何も臆することなく、世の誤解を解くために発表することが出来るのだ。
『 漢口の「慰安所」を見学 』
商社員として十七歳の春、中国揚子江中流の漢口[現武漢]に渡った私は日本軍が占領してまだ五カ月しか経っていない、言わば硝煙のにおいが残っている様な街に住むことになった。当時、漢口の街は難民区・中華区・日華区・フランス租界・日本租界・旧ドイツ租界・旧ロシア租界・旧英国租界に分かれていて、地区ごとにそれぞれ事情に合った警備体制が敷かれていた。日華区とは日本人と中国人とが混じって住んでいる地区で、そこに住む中国人は中華区に住む者と同様「良民証」を携帯しており、そうでない者は警備上難民区に住まされていた。難民区は日本兵も出入りを禁止されていて、私たち在留邦人は届け出て許可を得なければ出入り出来なかった。それだけ危険な場所だった。 私は、仕事が貿易商だから、難民区以外はよく歩いた。ある日、汚れた軍服を着た兵士に「慰安所はどこか知りませんか」と路上で尋ねられ、一瞬思い当たらず戸惑った。しかし看板に黒々と「漢口特殊慰安所」と書いて壁に掲げていて、その前に歩哨と「憲兵」の腕章をつけた兵隊が立っている場所を思い出したので、その通り教えてあげた。映画館と同様に日華区にあった。汚れた軍服から推測して、作戦から帰ってきた兵士に間違いない。
街を警備している兵士は、そんな汚れた軍服で外出してないからだ。私は「特殊慰安所」か、なるほど作戦から帰った兵士には慰安が必要だろう、小遣い銭もないだろうから無料で餅・饅頭・うどん他がサービスされるのだろうと早合点していた。
ところが、私の知人が営む商社は日用品雑貨の他に畳の輸入もしていて、それを「慰安所」にコンドームなどと一緒に納入していたので「慰安所」の出入りが自由であった。彼に誘われて一般在留邦人が入れない場所だから、これ幸いと見学に行った。私たちは、憲兵に集金の用件を話してまず仕事を済ませた。
日が暮れていたので「お茶っぴき」[客のない遊女]が大勢出てきて経営者と私たちの雑談に入ろうとしてきたが追い払われた。そこには内地人も鮮人も中国人もいた、現在、鮮人は差別用語とみなされ、使われない。しかし朝鮮半島が日本統治だった時は「日本人、朝鮮人」などと言おうものなら彼らに猛烈に反駁された。彼らも日本人なのだからと言う理由である。群がってきた彼女たちは商売熱心に私たちに媚びてきた。
憲兵は特別な事情の時以外は、部屋の中まで調べに来ないからである。料金は女性の出身地によって上中下がある。
また利用時間も兵士は外出の門限が日没までだから日中に限られるが下士官は門限が長く、将校になれば終夜利用出来る。料金も階級の上の方が割高で、女性たちは当然、同じ時間で多く稼げることになる。
半島出身者に「コチョ[ 伍長─下士官 ]かと思ったらヘイチョウ[ 兵長─兵士 ]か 」、「 精神決めてトットと上がれ、ネタン[ 値段 ]は寝間でペンキョウ[勉強]する 」とか、笑うどころではない涙ぐましいまでの努力をしているのも聞いた。
内地人のある娼妓は「内地ではなかなか足を洗えないが、ここで働けば半年か一年で洗える」といい、中には「一日に二十七人の客の相手をした」と豪語するつわものもいた.
『 どこにもいなかった「性的奴隷」』
ここで親しくなった経営者の話を紹介しよう。
「体力的に大差がない筈なのに、内地人は兵士たちと言葉が通じるために情が通うのか、本気でサービスして商売を忘れ健康を害してしまう。そのために送り返さねぱならず、経営者にとって利益が少ない。兵隊さんには内地人ばかりで営業するのが本当だが。」と本音を漏らしていた。
私の育った街には花柳界があったので、芸妓と酌婦をよく眼にしたが、当時は玄人女と呼ばれた彼女たちの外出姿でも一般の女性と見分けることが出来た。その目で見れば漢口の街でも同様だったが、特に朝鮮人の女たちは特色があった。
というのは彼女たちは数人で外出してくるのだが、民族衣装ではなく、着慣れないツーピースの洋装のせいで着こなしが悪く、また歩き方にも特徴があって一目で見分けられた。 彼女たちは実に明るく楽しそうだった。その姿からは今どきおおげさに騒がれている「性的奴隷」に該当する様な影はどこにも見いだせなかった。確かに、昔からの言葉に、「高利貸しと女郎屋の亭主は畳の上で往生出来ぬ」というのがあった。明治時代になって人身売買が禁止され「前借」と形は変わったが、娘にとっては売り飛ばされた」ことに変わりはなかった。先述の「足を洗う」とは前借の完済を終えて自由の身になることを言うのだが、半島では悪どく詐欺的な手段で女を集めた者がいると言う話はしばしば聞いた。
騙された女性は本当に気の毒だが、中にはこんなしたたかな女の話もある。「 従軍看護婦募集だと騙されて慰安婦にされたが、私は高等女学校出身なのに、」と、兵士や下士官を、涙で騙して規定の料金以外に金をせしめているしたたかな女もいた。またそれを信じ込んでいた純な兵士もいたことも事実である。日本統治で日本語が通じた故の笑えない喜劇でもある。ところで、その「慰安所」にどれだけの金が流れたのだろうか。これが「慰安婦」が「商行為」であった確かな事実である。私の次兄が主計将校で、漢口にある軍司令部に直接関係ある野戦衣糧廠にいたので「慰安所」について次のような統計があると教えてくれた。当時、漢口周辺には約三十三万人という兵力が駐屯していたが、ある理由で全軍の兵士の金銭出納帖を調べた。三分の一が飲食費、三分の一が郵便貯金、三分の一が「慰安所」への支出だった。貯金は給料の僅かな兵士たちにとって嬉しいことではなかったが、上司から躾として教えられている手前せざるを得なかったのが実情だった。私も初年兵として一ケ年、江西省南昌にいたが、食べたいのを我慢して貯金した。一人の兵士がそれぞれ三等分して使った訳ではないだろうが、人間の三大欲は食欲、睡眠欲と性欲と言われるだけに、
貯金を睡眠に置き換えると全く物差しで測った様な数字である。ちなみに当時の給料は兵は一カ月平均十三円程で、その三分の一を約四円として計算すると三十三万人で総額約百三十二万円になる。「零戦」など戦闘機一機の価格は三万円と言われたが、実に四十四機分にも相当する。サラリーマンの初任給が四十円そこそこの頃だったのだから、経理部の驚くのも無理のない話である。以上が、私が商社員として約三年半の間、外部から眺め、また聞き得た「慰安所」と「慰安婦」の実態である。私が漢口を去った昭和十七年夏以降に、漢口兵站 [ 作戦軍の後方にあって車両・軍需品の前送・補給・修理・後方連絡線の確保などに任ずる機関 ]の副官で「慰安所」等を監督した将校の著した『漢口兵站』と照合してみたが、地名・位置等について多少の相違点は見いだしたが、本題の「慰安所」について相違はなく、より内情が詳しく記されていた。これでは誰がどう考えても「商行為」であるとしか言いようがないだろう。「商行為」ではない、軍による「性的奴隷」であるとそれでも強弁するとすれば、知らな過ぎるのか、愚かで騙されているのか、そうでなければ関西人が冗談めかして言う「いくらか貰うてんの?」なのかもしれないが、あまりにも馬鹿げた話である。
『 問題にして騒ぎ出す者たちの狙い 』
次に、軍関与の暴論について証言する。私は二十歳で現役兵として入隊、直ちに中支の江西省南昌の部隊に出征した。
初年兵教育が終わって作戦参加、次いで幹部候補生教育、途中また作戦と、一ケ年一度の外出も貰えずに久留米の予備士官学校に入校してしまったから、外出して「慰安所」の門を潜る機会に恵まれなかった。だが初年兵教育中、古い兵士には外出がある。外出の度にお土産をくれる四年兵の上等兵に「 外出でありますか。」と挨拶したら、「 オー、金が溜ったから朝鮮銀行に預金に行くんだ。」と笑って返事をしてくれた。周りは周知の隠語だからクスリと笑うだけだった。南昌には師団司令部があった。「慰安所」には内地人も朝鮮人も中国人もいて、兵士は懐次第で相手を選んで遊んだのだろう。私は幹部候補生の教育を、南昌から三十キロ以上も離れた田舎の連隊本部で受けた。「慰安所」は連隊本部の守備陣地の一隅に鉄条網で囲まれて営業していた。教育の末期に候補生だけで本部の衛兵勤務につくことになった。もちろん勤務は二十四時間である。私は営舎係だったので歩哨に立たないから何度も歩哨を引率して巡察に出た。巡察区域の中に「慰安所」も含まれていた。前線の歩哨は常時戦闘準備をしている。兵舎内の不寝番でさえ同様だ。鉄帽を被り、銃には弾を装填し夜間はもちろん着剣である。その姿で「慰安所」の周囲だけならまだしも、屋内も巡察し、責任者の差し出す現在の利用者数の記録を確認する。軍規の維持とゲリラの奇襲攻撃を警戒しているからである。
考えてみるまでもない、そこで遊んでいる兵士は丸腰どころではない。もっと無防備で不用心な姿の筈である。その将兵を守るべき責任は部隊にあるのは当然だ。それに性病予防の問題もある。そんな田舎に医師や病院がある筈がない。性病予防のため軍医や衛生兵が検査を実施するしかない。「慰安所」の経営者は中国人だったし、日本では当時公認の娼妓と呼ばれた女たちも中国人だった。彼らも食料やその他の生活用品が必要だ。大人数なのだから、それなりの輸送手段もいる。辺鄙な場所だから部隊に頼る以外方法がない。部隊が移動する時もそうなるだろう。
私の話す湖北省の言葉もだいたい通じたので、経営者と立ち話をして彼女たちについてそれなりの様子も聞き出せた。今でも「慰安所」の両側に部屋のある中廊下を巡察した不粋な自分の姿を思い出すが、こんな漫画にもならない風景が現実にあったのだ。これは私の部隊だけではないと思う。 もう六十年も昔のことである。時代が変わり、また平時と戦時の違いもある。したがって娼妓[ ここでは慰安婦に相当する ]に対する解釈も当然変化している。そうであるにもかかわらず、すでに証拠も不完全になっていることを幸いに、今更これを問題にして騒ぎ出す者たちの狙いは何なのか。言えることはただ一つ、不完全だからこそ喚き散らしていれぱ何かが得られると狙っているということだ。
戦場に身を曝し、敵弾の洗礼を受けた者として最後に言っておく。このことだけは確かだ。野戦に出ている軍隊は、誰が守ってくれるのだろうか。周囲がすべて敵、または敵意を抱く住民だから警戒を怠れないのだ。
自分以上に強く頼れるものが他に存在するとでも言うのならまた話は別だが、自分で自分を守るしか方法はないのだ。軍は「慰安所」に関与したのではなく自分たちの身を守るための行為で、それから一歩も出ていない。
「異常に多く実を結んだ果樹は枯れる前兆」で「種の保存の摂理の働き」と説明されるが,明日の命も知れぬ殺伐とした戦場の兵士たちにもこの「自然の摂理」の心理が働くと言われる。彼らに聖人君子か、禅宗の悟りを開いた法師の真似をしろと要求することが可能なのだろうか。現実は少ない給料の中から、その三分の一を「慰安所」に持って行ったことで証明されている。有り余った金ではなかったのだ。「兵隊さん」と郷里の人々に旗を振って戦場に送られた名誉の兵士も、やはり若い人間なのだし、一方にはそうまでしてでも金を稼がねばならない貧しい不幸な立場の女性のいる社会が実際に存在していたのだ。買うから売るのか売るから買うのかはともかく、地球上に人が存在する限り、誰も止めることの出来ないこの行為は続くだろう。根源に人間が生存し続けるために必要とする性さがが存在するからだ。
「従軍?慰安婦」なるものは存在せず、ただ戦場で「春を売る女性とそれを仕切る業者」が軍の弱みにつけ込んで利益率のいい仕事をしていた、と言うだけのことである。
こんなことで騒がれては、被害者はむしろ高い料金を払った兵士と軍の方ではないのか。
『 正論 』平成十九年一月号より
2011年9月15日: 韓国政府が、元日本軍の従軍慰安婦の賠償請求権問題に関する協議を提案したことについて、日本政府はこれを拒否した。外 務副大臣を務める山口壮氏は15日の記者会見で「(韓日基本条約の締結により)1965年の国交正常化時に、請求権問題は法的に解決したという基本的立場 に変わりはない」との立場を明らかにした。
米軍報告は、慰安婦の存在はあったとしたが、日本軍による、従軍の可能性を調査結果で否定していて、これは、小野田少尉の記録とも合致する。米国調査は古いが、韓国紙が紹介した事に意味があるが、すでにページはリンク切れとなっているので、参照記事で確認できる。果たして韓国語で国内向けに紹介したかどうかは不明。恐らくしてはいないのでは?
韓国の、竹島に関するウィキリークスの読み方 「一番公正な歴史教科書は日本」米スタンフォード大学
韓国主張の「東海」はダメ!IHO
<創刊企画>日本IT界の神話、孫正義「志高く」(1) 孫正義ソフトバンク会長(54)は在日同胞3世だ。昨年末基準で日本4位の富豪。年間売上高3兆円(約43兆ウォン)のアジアを代表する情報通信技術(ICT)グループを率いている。孫会長は日本で‘ICT業界の坂本龍馬’と呼ばれる。龍馬は明治維新の礎石を築いた日本近代化の英 ... 2011.09.15 09:43:59
<創刊企画>日本IT界の神話、孫正義「志高く」(2) 1.番地数もないトタン屋根の家…16歳で志抱く3カ前、久しぶりに韓国を訪れた。青瓦台(チョンワデ、大統領府)を訪問し、記者懇談会も開いた。私としては韓国で10年ぶりとなる公式行事だった。行事が終わる頃、ある記者がぱっと手をあげてこのように尋ねた。「座右の銘が‘意高 ... 2011.09.15 14:51:48
<創刊企画>日本IT界の神話、孫正義「志高く」(3) #父の店を救った12歳の少年 夢が多い少年だった私は、そのほかにも画家、詩人、政治家、事業家になってみたかった。 今でも時々、会議中にホワイトボードにトムとジェリー、スヌーピーなどの漫画キャラクターを描いたりする。 他の人たちはなかなかのものだと言う。 政治家になりた ... 2011.09.15 14:51:59
- <創刊企画>日本IT界の神話、孫正義「志高く」(4) 孫正義の名前で、人間はみんな同じということを証明してみせる」。母は毎日涙を流した。 祖母も同じだった。「やめなさい、正義。 そこがどういうところだと思って…。 一度行けば帰って来られない。絶対にやめなさい!」母にも話した。「医者の先生に尋ねたが、父は死なないと言っ ... 2011.09.16 18:08:34
<創刊企画>日本IT界の神話、孫正義「志高く」(6) 孫正義人生50年計画」だ。 20歳代から60歳代まで今後50年間、私が挑戦するもの、成し遂げるべきことなどビジョンを完成したのだ。 その後、私の人生はそのビジョンの現実化に捧げた。 計画を変えたことも、目標値を低めたことも、達成できなかったこともない。 「慎重に計画し、 ... 2011.09.20 18:00:14
<創刊企画>日本IT界の神話、孫正義「志高く」(7) #偶然見た写真…感激の涙大学に入学した後は死に物狂いで勉強した。 私は自信を持って言える。 当時の自分より熱心に勉強した人はいないと。 物理的に不可能なことだからだ。授業は一度も欠かさずに出た。 常に最前列に座り、教授の顔から目を離さなかった。トイレに行くときも教科書 ... 2011.09.21 17:43:18
<創刊企画>日本IT界の神話、孫正義「志高く」(8) 19歳の時、苦労して入った米UCバークレー大で経済学の勉強を始めた。 一方で発明に没頭した。 雑誌で偶然目にしたマイクロプロセッサーの写真と記事に完全に魅了されたからだ。 写真を切り取り、毎日携帯した。 寝る時は枕の下に入れたりもした。「この小さなチップ一つが人類の未来 ... 2011.09.22 17:22:24
<創刊企画>日本IT界の神話、孫正義「志高く」(9) #冷笑された発明が大ヒットまず大阪にある松下電器を訪れた。 松下側は「すでに製品を開発している。 関連特許もある」と言って関心を見せなかった。 三洋電気も訪問した。 結果は同じだった。 こうして数十社を回った。 シャープ本社を訪れた時、偶然、米国で出会った佐々木正・中央研 ... 2011.09.26 17:35:34
<創刊企画>日本IT界の神話、孫正義「志高く」(10) 、、重要な決断をした。 結婚だ。
<創刊企画>日本IT界の神話、孫正義「志高く」(11) 1980年3月、米国留学を終えて帰国
<創刊企画>日本IT界の神話、孫正義「志高く」(12) 81年9月、、大野城市にソフトバンクを創業
<創刊企画>日本IT界の神話、孫正義「志高く」(13) 電子展示会「エレクトロニクスショー」に参加
<創刊企画>日本IT界の神話、孫正義「志高く」(14) 初期のソフトバンクは目覚しい成長
<創刊企画>日本IT界の神話、孫正義「志高く」(15) 資金難、職員の背信、読書で、、
<創刊企画>日本IT界の神話、孫正義「志高く」(16) ショック療法で病気を克服
<創刊企画>日本IT界の神話、孫正義「志高く」(17) 重症肝炎を克服して一線に
<創刊企画>日本IT界の神話、孫正義「志高く」(18) マイクロソフトを背に日本コンピューター
<創刊企画>日本IT界の神話、孫正義「志高く」(19) インターネット世界を案内する
<創刊企画>日本IT界の神話、孫正義「志高く」(20) 私は19歳の時、「人生50年計画」
<創刊企画>日本IT界の神話、孫正義「志高く」(21) 反転と執念の交渉ドラマ
<創刊企画>日本IT界の神話、孫正義「志高く」(24) 私はメディア産業にも進出することにした。
<創刊企画>日本IT界の神話、孫正義「志高く」(25) 私は華やかな40代初めを過ごした。
<創刊企画>日本IT界の神話、孫正義「志高く」(26) 2000年のバブル崩壊は致命的だった。
<創刊企画>日本IT界の神話、孫正義「志高く」(27) #「あなたを信じる」 株主の涙に
<創刊企画>日本IT界の神話、孫正義「志高く」(28) 未知の分野に新規投資する場合
<創刊企画>日本IT界の神話、孫正義「志高く」(29) 2001年6月、ついに東京で試験
<創刊企画>日本IT界の神話、孫正義「志高く」(30) 2001年6月19日、ついに日本初の超高速インターネット事業を始めた。 日本最大通信企業NTTよりはるかに速いサービスを、その8分の1の料金で提供すると宣言した。 野心に満ちたスタートだったが、あちこちが地雷原だった。
(30)以降のリンク先は以下のページを参考に(「志高く(31)~(41))
【コラム】夢見る孫正義 孫正義パワー…日本の35道府県と自然エネルギー協議会結成
「第2のジョブズは孫正義」…ウォールストリートジャーナル
机を叩いた孫正義氏…経団連の「原発再稼働」要求に反発 ジョブズがいないアップル、日本ソフトバンクとの関係にも関心
市外の路上脇で、首を切断されて放置された女性の遺体が発見され、地域の新聞社Primera Horaに勤務する女性 Marisol Macias Castanedaさん39歳と判明した。遺体横にはパソコンのキーボードやCDプレイヤーと一緒にメッセージが残されていた。メッセージは、その地域を支配する麻薬カルテル・セタスからのもので、ブロガーに対する脅しが書かれている。彼女はマスコミに勤務する傍ら、投稿サイトNuevo Laredo en Vivo(Nuevo Laredo Live)に書き込みを行っていた。
このサイト「ヌエボ・ラレド・ライブ」では、住民らに、入手した麻薬組織の行動、麻薬販売の場所や組織の監視場所などに関する情報等を、サイトを通じて軍隊や警察へ情報提供や密告する事を呼びかけていた。新聞は報復を恐れて自主規制している現状では、ソーシャルメディアが貴重な情報源となっている。殺害された女性は、La Nena de Laredo,"または"ラレド・ガールLaredo Girl.の匿名で投稿していたと言われる。
遺体横のメッセージは「サイトNuevo Laredo en Vivoやソーシャルネットへ:私はラレド・ガールです。私は自分やあなたのレポートの為にこうなっています。信じない方も居るでしょうが、自分の警察や軍へのアクションのせいで現実に起きてしまいました。ご注目感謝します。ラレド・ガール ZZZZ」参照記事
中南米のコスタリカ、エル・サルバドルCosta Rica and El Salvador,は9月25日、麻薬犯罪撲滅のため国連に対し支援を求める発言を行った。すでに一国の国内問題ではなくなってきている。組織犯罪を温存することの危険性を、日本も含め世界はもっと知るべきだ。参照記事
2011年9月28日:上の事件を受けて、メキシコでのインターネットでの犯罪告発は減少し、衰退の兆しを見せている。5年で少なくても42人のジャーナリストが殺害されたメキシコのマスコミは、この事件について自主規制し、一部の新聞は彼女の名前も載せず、簡単な記事で紹介するにとどまった。参照記事 ギャングから「必殺仕置き人」マタ・セタスが登場?メキシコ
今月2011年9月3日、男が監禁していた23歳の女性を売春させるため外に連れ出したところ、女性が隙を見て逃げ出して警察に通報。9月6日、供述から警察が洛陽市西工区凱旋路付近の監禁場所を突き止め、16歳の少女を含む女性3人を保護し、2人の遺体を発見した。 男は集合住宅の貯蔵室として使われていた地下の部屋を購入し、その4m下に更に20m2足らずの地下室を設け、2年ほど前からカラオケやナイトクラブなどで指名した女性(ホステス)たちを 相次いで地下室に連れ込んで監禁。けんかになったりした女性2人を見せしめのために殺害し、遺体を地下室の中に穴を掘っ て埋めた疑いが持たれている。
監禁されていた部屋は、地下の貯蔵室から更に掘られた垂直で直径わずか60センチほどの竪穴から地下4メートルの深さまで降りる。降りると左に一人が腹ばいになってようやく通れるほどの横穴があり、這って進む先は 2つの小部屋に分かれていた。そして20平米ほどの小部屋の中に3人の女性がいた。人の気配に、女性らは「お兄ちゃん!帰って来たの!」と叫んだ。しかし 入ってきたのが警察官だと分かると大声で泣き出した。女性らは監禁した男を”お兄ちゃん”とか”旦那”と呼んでいた。長い者は2年、短くても3ヶ月間、地下の穴倉に閉じ込められたままだった。女性たちが逃げ出す力をつけないために、食事は2日に1回だけだった。
しかし捜査員が驚いたのは、女性たちが男に心身共に絶対服従していたことだ。密室の中に閉じ込められて男に調教されたため女性たちはお互いをライバル視し、毎晩誰が”お兄ちゃん”と寝るか争っていたという。1年ほど前のある日、2人の女性が男を巡り嫉妬しあい殴り合いの喧嘩となった。男は片方に加担して相手を殴り殺させた。その後、見せしめとして一方も殴り殺してしまった。そして地下室の片隅に穴を掘り遺体を埋めてしまった。保護された女性には、殺人に加担した疑いがもたれている。
男は経済的に苦しくなると監禁女性の中から大人しい女性を選んで外に出し売春させて稼がせていた。女性が逃亡したのに気づいて男も逃げ出そうとしたが、洛陽を出る前に捕え られた。写真は、最初の地下室への入り口
犯人李浩には10歳年下の妻と1歳の子供も一人いた。地下室のある民家は自宅ではなく4年ほど前に安く手に入れた。そこに自分で穴を掘り地下 室を作った。夫が奴隷部屋を持っていることなど妻はまったく知らなかったという。妻には夜勤と称してほとんど毎晩ナイトクラブに遊びに行っていた。また監禁女性 と奴隷部屋で過ごす日は、妻には大きな屋敷の警備のアルバイトがあるから帰れないと伝え、半月も帰らないこともあったと言う。監禁場所は歴戦のベテラン捜査員でさえ経験したことのない異様な現場で「穴倉の中はすごい湿気とすえた強烈な異臭が充満していた。彼女たちは食事も排せつもこの穴倉の中だったから」参照記事から抜粋 編集 英文記事 英文参照記事
写真上は、地下牢入口になっていた地下室を見せる住民。犯人は消防に勤務する市の高級役人のようで、この事件を9月22日に記事にした『南方都市報』の紀記者は、同日市の2名の洛陽市委員会役人から「国家機密を侵した」という脅しとソースの自白を強要されたとミニブログに書き、現在も身の危険があるようだ。
2011年9月24日:犯行の発覚から情報公開に時間がかかったことに地元警察は24日謝罪し、何らかの圧力のあったことが伺える。最初の公表では犯人が消防士だったり、地下の穴倉と言われた部屋にはコンクリートの壁やベッドもある。どうやって直径60cmの通路を運んだのか、警察の公開情報には不可解な点が多い。参照記事 英文参照記事 過去ブログ:現代の 金瓶梅 「王成日记」(疯狂的“性爱日记”)
2012年12月1日:中国河南省洛陽市の裁判所は11月30日、自宅の地下牢に6人の女性を性的奴隷として監禁していた元地方公務員リ・ハオ被告(35:写真)に死刑判決を下した。リ・ハオ被告は、殺人、強姦、組織売春、不法監禁、ポルノ販売の罪に問われていた。監禁されていた6人の女性のうち3人は、捕らわれていた他の女性2人を殺害した罪に問われたが、裁判所は、加害女性ら自身も捕らわれの身だったことや、リ・ハオ被告から殺害を指示されたことなどを考慮し、女性1人に懲役3年の実刑判決、他の2人に執行猶予判決を下した。 右は地下への入り口 参照記事 中国語記事
2014年1月21日:中国当局は21日、女性6人を長期間にわたって監禁し、うち2人を殺害したとして死刑判決を受けていた李浩(Li Hao)死刑囚(36)の死刑を執行した。被告は、2009年に購入した自宅に地下牢を作り、当時カラオケバー、美容院、マッサージ店に勤務していた6人の女性を誘拐し、およそ2か月から1年9か月にわたって監禁し、繰り返し強姦した。女性たちの年齢は16~23歳で、5人は売春婦だった。客を装った李元死刑囚にだまされ、地下牢に連れて来られたという。20歳の時に監禁された女性1人は妊娠した。参照記事
日本は中東産原油への依存度が高く、北米の11.1%、欧州の19.0%に比べ、アジア・太平洋地域全体で53.7%(2003年・BP統計より算出)、日本だけで見ると88.5%(2003年度・資源エネルギー庁石油統計速報)にも達していた。
なりふり構わずにエネルギー資源を確保する中国の影響もあり、石油資源の獲得競争は世界的に激化している。そんな状況で2005年10月2日、日本企業五社がアフリカのリビアで行われた油田鉱区の国際入札で、採掘権を落札。原油埋蔵量が世界九位(現在8位)のリビアで、日本企業が権益を獲得したのは初めて。当時、落札したのは新日本石油、帝国石油、石油資源開発、国際石油開発、三菱商事の五社で、対象となった二十六鉱区のうち六鉱区で権益を確保した。参照記事 2011/2/22参照記事中東 参照記事
その後のリビア戦争はまだ終結していないが、リビアには日本の石油会社が進出し、2社は現在も採掘権を保持している。リビア石油産業の復活に日本の技術は大いに役立つはずで、同時に日本の国益が関わっている。そんな事もあって、ここのブログではリビアの動静を追っている。
リビアの今回の戦争は資源、経済戦争だと当初から言ってきた。特に英国は、2月15日のベンガジでの反政府デモ勃発以降の早い時期から新政権樹立に動き、追うようにNATO軍、米軍が実戦に協力した。英国は地上軍こそ送り込まなかったが、3月19日からの自軍の航空機による爆撃、軍事アドバイザーやスパイの送り込みによる作戦指導など、かなりな部分で主導的な活動を今も行っている。当然、ここまで介入する意味があるわけで、それは資源確保であり、リビアに広大な採掘鉱区を確保する英国石油メジャーBPの保護だった。BPはメキシコ湾の原油漏出事故で莫大な補償を抱え、ここが生命線だとも言える。
BPは2010年4月20日に起きたメキシコ湾原油流出事故後の2010年7月20日、米国の独立系石油会社Apache Corporationに、米国、カナダ、エジプトの石油資産を売却する契約を締結、売却額は総額70億ドルで、売却対象はテキサス州とニューメキシコ州南東部にまたがるパーミアン盆地の油田、西カナダの天然ガス、及びエジプトの西砂漠油田とEast Badr El-din 油田で、メキシコ湾での災害保障費の捻出の為だった。①ルイジアナ州沖の石油基地爆発炎 海底から噴出続く ~ ⑮さて、これからが問題だメキシコ湾原油流出 図解 最終章 メキシコ原油流出後の環境汚染
BP は事故の3年前2007年5月29日、当時のブレア英首相のリビア訪問時に、リビアのNational
Oil Company との間で
リビアと調査開発契約Exploration and Production Sharing
Agreement を締結しており、BPによると、当時これは
・国際石油会社がリビアと締結した単一では最大の開発契約で、
・BPの100年の歴史の中で、単一では最大の開発契約で、
・近代になってリビアが国際石油会社に与えた単一では最大の面積の開発契約で、
・リビアの国立石油会社National Oil Company が国際石油会社とともにリビアの石油・ガスを開発する戦略の成功例であるとしていた。
この契約後の2010年4月20日にメキシコ湾事故が起き、BPは莫大な補償債務を抱え、遠くの鉱区を売却し、近くの有望な鉱区での開発に全力投球する方向に転換、2010年7月27日の記事によれば、BPはリビア、シルト(Sirte)沖(右図)で深海油田掘削に着手したとある。これはリビアのGulf of Sirte(別名 シドラ湾)の1700mの海底で掘削を行うもので、メキシコ湾の流出事件の井戸より更に200m深い。
具体的なリビアでの開発規模は、7年間に54,000km2の開発を行うもので、海底のシルト鉱区Sirte basinの30,000km2と陸上のガダメス鉱区Ghadames basinの(左図)24,000km2とから成り、リビアの全土、アルジェリア、チュニジアにまたがる広大な地域の開発だ。シルト鉱区ではすでに油井掘削開始に向けたリグ(海上施設)の準備ができており、人工地震による地質調査はすでに2009年完了し、Ghadames basinについても、2010年末までに掘削を計画していた。
このBPの社運をかけた開発が進んでいた状況の2011年6月に、予想もしないリビア紛争がおきたわけで、何とかしてくれと英国政府に泣き付き、英国政府も、BPの破綻は英国経済の混乱を引き起こすのは必至とみて、それまでの協力関係から最初は状況を見ていたが、カダフィ政権崩壊を予測してからは徹底的な攻撃、新政権擁立に推移し、状況は今の国際軍とカダフィ軍という戦争に発展して行った。
英国だけでなく、ここに資源を依存しているのはフランス、スペイン、イタリア、ほかEU諸国、そして日本。世界は、不安定になった中東以外からの石油を求めている。そんな中、カダフィを途中まで支援したロシア、中国は今後の開発に不利になった。
特に中国は、リビア南部のニジェールでも資源開発をして経済投資をしており、恐らく資源は、距離的にもリビア経由で中国まで輸送する計画だったと思われる。中国にとってリビアでの影響力を失う事は相当な打撃だと想像できる。中国のリビアでの損害5兆円超!利権も失う?⑱
2011年9月24日:バニワリード、シルト、サブハの新政権側の包囲はほぼ完了し、内部のカダフィ軍はどこにも逃げれない状態になっている。今は決死の覚悟で逃げ出す住民家族が一人でも多くなるの支援し、攻撃のタイミングを推し量っている。カダフィ軍は逃げ出す住民の車列に銃弾を浴びせ、シルトでは住民の車が破壊されたのが目撃されている。カダフィ軍は住民を内部に引きとめ、盾に使う可能性がある。参照記事 交渉期限切れ 最終攻撃に突入か リビア(26) 2011年9月23日YOUTUBE映像
2011年9月25日:現地24日早朝から、シルトへの攻撃が始まり、カダフィ軍は下町に後退しながらも激しい抵抗をしている。攻撃は街の東西からで、市民の脱出が優先だったが、市内には食料もなく、病人も多いとしてこれ以上待つことが出来ないと判断したようだ。
2011年9月26日:シルトではNatoの空からの支援と同時に地上軍が市内で市街戦を展開している。トリポリ西部 アルジェリア国境沿いでは、アルジェリアに逃亡していたカダフィ軍が舞い戻り、国境沿いで新政権軍兵士6名が死亡したとの報告がある。トリポリ近郊では、刑務所の囚人の集団埋葬地が確認され1200~1700人の虐殺遺体があると推定されている。犯行は1966年に行われたもの様で、遺体は酸で溶かされたりしていて身元確認は難航するようだ。写真は26日シルト南側付近の新政権兵士、狙撃の危険は無くなっている。
ちなみに、首から案内板を前後に2枚ぶら下げた状態で、人を挟んだサンドイッチの様なのでこう言います。日本語なっているサンドイッチマンの由来はここからです。2011年9月24日時点で売れていません。週貸しなら1週間390ポンド£390(4万6800円=187200円/月)だそうです。 参照記事
2011年4-6月はアイルランドやポルトガルを中心にユーロ圏17カ国の半分余りで住宅が値下がりした。両国はそれぞれ前期比4.2%、2%下落した。一方、英国とドイツはともに0.2%上昇した。 世界で見れば、住宅価格は2011年4-6月(第2四半期)の上昇が2年ぶりの鈍いペースとなった。
以上 共同通信からの参照記事 は短いが、このダムは北海道富良野市の空知川支流・西達布川上流に1977年に着工、1993年に工事終了。完成後の試験で漏水が発生し、当初の事業費は63億円がなんと379億円と6倍にもなっているにも関わらず、使用できずに止水工事を考えているそうだ。この事業主体は国土交通省北海道開発局の旭川開発建設部で、稼動していない2007年の入札記録には「東郷ダム外電気通信施設点検」とあり、契約金額は79.4%の落札率で246万円と、まだ使用できていない施設にも税金は使われている。 他の入札を見ていると、「トナー外11点…330万円」「ガソリン外…1236万円」「スタッドレスタイヤ外購入…176万円」などなど。参照記事
着手から40年、行政のあいまいな対応は、今でも全く生産性の無い、無意味な経費ばかりが投入され、これに開発局の人件費や出張費を加算すれば膨大な無駄を引きずっていることになる。一体、会計検査院とは何のために有るのか?対費用効果を考えれば、早急な対応を関係部署に打診できないのか?判断すべき部署がどこにあるにせよ、人間がこういうことに携わる意味は、人間しか出来ない判断や予想や決断を求めているからだ。それが出来ないなら、無責任な無能な集団でしかない。結局、役人が役人の仕事は検査できず、それでもするなら検査院を検査する部署が必要ということか。
ここに国会での第7号平成22年4月26日の質疑記録がある
○金子恵美君 「、、、それから北海道の東郷ダムの二か所におきましては、先ほど大臣からもありましたけれども、水漏れなどの技術的な問題が確認されたところでございます。水漏 れなどの技術的問題があるダムの改修はもう急がなければいけない、そういうところでございますが、今後の改修予定と費用についてお伺いさせていただきたい と思います。、、」
○国務大臣(赤松広隆君)「、、大分県、ちょうど阿蘇のところにあります大蘇ダム、それから北海道の富良野のところにあります東郷ダム、この二つが象徴的でありますけれども、ともに水が たまらない、あるいは東郷ダムについては、予定水量いっぱいにしたら崩れてしまうのでいっぱいにできないというような実態がございますので、一番いいの は、それを全部造り替えちゃうのが一番いいんですが、例えば大蘇ダムなんか造り替えたら四百億、五百億掛かる、とても今の財政状況の中で、欠陥があるから また新しくやり直すんだと、四百億、五百億掛けてもいいんだということは国民的な理解が得られないというふうに思っておりますので、必要最小限の手当てを きちっとしていくと。、、」
○副大臣(郡司彰君)「、、したがいまして、大きな方針としては、先ほど大臣が示されたように、今後こうしたダムの建設は行わないということをまず決めさせていただきました。、、」
40年の間に農業環境は大きく変わり、すでに無用になったダムの質疑がこれだ。結局まだ何もしていない。聞くほうも答えるほうも、数十年前に起きた事を今、こんな穏やかにやり取りしているのだ。副大臣はこうも言っている「しかし、いかんせん、私どもの政権以前のことがすべてでございますので、これからこのようなことがないようにということは肝に銘じて行っていかなければいけないというふうに思っております、、」、、、これではオチの無い落語を聴いているようなものだ。過去ブログ:ダムに、国費に群がるハイエナ共 八ツ場ダムと事業仕分け