日露戦争(一九〇四-〇五年)の捕虜を埋葬した愛媛県 松山市御幸1丁目のロシア人墓地で25日、第49回慰霊祭(市主催)があった。 住民や勝山中学校生徒ら約60人が参列し、遠い異国で亡くなった兵士の冥福を祈り、平和の尊さをかみしめた。同墓地に眠るのは、日露戦争で捕虜となり松山収容所で亡くなったワシリー・ボイスマン海軍大佐ら98人。勝山中学校や地元老人会などが定期的に墓地の清掃奉仕を続けている。
まだ武士道精神が健在だった明治には、国際条約に沿って捕虜の待遇もよく、市民とも交流が有名で、お小遣いも支給され、捕虜と看護師のロマンスも残っている。(下の関連ブログ参照)日本軍の捕虜になった74000人の捕虜のうち、松山には6000人ほどが滞在し、そのうち98名が異国で亡くなった。写真の大佐の胸像はロシアで作られ、その当時ロシアは経済不況で日本へ胸像を送る資金が無く、その資金を市民や学生が募金でまかなった。こういう行為が平和につながるのだろう 。当時全国に収容所は29箇所あり、中でも松山の待遇は日本の兵隊を上回った。礼拝所もあり、市内への出入りも自由だった。ロシア人がその評判を聞き、戦地で日本兵に捕まったとき「マツヤマ、マツヤマ」と叫んだ逸話が残っている。右の絵葉書では、捕虜が治療のために道後温泉へ湯治に出かけています。
左は当時の日本側の資料で、敵国陸海軍衛生部員並俘虜にして治療の後兵役に堪へすと認とむる者等帰国を許可す と記述されている。
捕虜は、かならずしも戦争が終わるまで収容所に抑留されていたわけではなく、日露戦争では、例えば医療従事者、あるいは兵隊としての勤務ができないほど負傷した捕虜などは、戦争中であっても帰国が許されました。負傷していたワシリー・ボイスマン海軍大佐に帰国を促したが、大佐は「兵と共にいる」と辞退し、日本で病気で無くなりました。当時は「ロシア人の武士道」として賞賛されたそうです。