

独立行政法人 石油天然ガス・金属鉱物資源機構(JOGMEC 理事長:河野 博文)は、6 月15 日ウズベキスタン地質鉱物資源国家委員会と同国におけるウラン共同探鉱契約を締結した。 この短いニュースで「やっと共同開発が始まったのか」と思いつつ、うまく採掘までこぎつけて、この国が発展してくれることを願っている。もともと金やウランの資源の多い国だが、1991年に旧ソ連から独立したばかりで支援が必要だ。日本は独立直後からODA(開発援助資金)で積極的に建国に参加している。
中央アジアのウズベキスタンの面積は日本の 1.2 倍、人口は 2,400 万人、首都タシケントには220 万人が住み地下鉄もある。1991年の独立から建国に励み、そのお手本を日本に求め、100名以上が日本で明治維新や戦後復興を勉強した。今も大学では多くの若者が日本語を勉強している。
世界大戦終結時、ここは日本人捕虜25000人が労働力として不当に長期間送り込まれた土地でもあり、813名が祖国を見ることなく亡くなった。その当時、500名ほどの日本人が建築に携わった首都タシケントにある国立ナボイ劇場は、レンガ造りの三階建て観客席1400席、市中心部の代表的建造物として今も威容を誇っている。当時、2年がかりで測量、レンガ製造から館内の装飾、電気、溶接、彫刻まで日本人抑留者が建設し、1966年の大地震でタシケント市内の多くの建造物が倒壊した際も、この劇場はビクともせず、「日本人の建物は堅固だ」「日本人の建築技術は高い」という評価を
この国に残した.。指揮した日本人将校の多くはまだ20歳前半の若者だった。(写真 右)
抑留兵士の中にいた建築技術者がこの国に地震の多い事を知り、丁寧に手を抜かず作ったおかげだといわれ、この劇場正面には、「1945年から46年にかけて極東から強制移住させられた数百人の日本人がこの劇場の建設に参加し、その完成に貢献した」とウズベク語、日本語、英語で表記されたプレートが設置されている。表記についてはカリモフ大統領が、「決して日本人捕虜と表記するな。日本とウズベキスタンは一度も戦争していない」と厳命したそうである。(写真左)
いまもこの国で国民に電気を供給している水力発電所の建設を仕切った現地の元現場監督は、在任中の中山恭子元駐ウズベク大使に会った時、日本人抑留者は、まじめに、そして懸命に発電所の建設に汗を流してくれたと当時を思い出して涙を流したという話が残っている。今に残る巨大な貯水池は兵士たちの手掘りで造られ、彼らはこの国の道路も運河も作った。そして多くの兵士が、望郷の念を叫べども決して届かぬ果てしなく遠いこの中央アジアの片隅で力尽きた。
捕虜の境遇にあっても勤勉に規律を持って働く日本人抑留者は、当時の地元民に敬意を表された。現地の人は、長い抑留でやせこけて、今にもくじけそうなボロボロな日本兵に「絶対に帰れる」と日本兵を励ま し、ある少年はソ連警備兵の目を盗み、こっそりと強制収容所(ラーゲリ 露: Лагерь)の隙間から日本人捕虜の傷だらけの手に黒パンや果物を握らせたという。彼らとて生きるのが大変な時期だったのに、、。 次の日にはそこに粗末な、しかし温かみのある兵隊の手造りのおもちゃが置いてあった。ーーー その後、ウズベキスタン 政府の協力も得て、荒れていた日本人墓地が整備され、「日本に帰ってもう一度、花見がしたかった」と言い残して亡くなった抑留者のために日本から桜の苗木千三百本が送られ、春には日本の色を見せている。
以前、読みながら泣けたこの話を資料を基に書き直した。今平和に生きるものとして忘れてはならない話である。人を殺せと教えられ、敵地を破壊せよと言われた兵士たちは、最後に何か美しいものを、永遠に残るものを残したかったのだろう。他国に資源を求めるのもいい、しかし、その跡にはきれいな森を残してほしいものだ。政治家に美意識があるならば、異国で桜を見たかった兵士のきもちはわかるだろう。ウズベキスタンの地で眠る兵士もそう願っているはずだ。 終戦時のシベリア抑留の被害者は全部で76万人(ソビエト資料による、一説には200万人以上)とされ、うち5万人が飢餓や病気などで死亡。日本への帰還は56年まで続いたとされています。93年にロシアが公開した資料で、日本政府が「天皇制の維持」を目的に、停戦交渉で日本兵を労働力として差し出すという 「棄民政策」をとったことが、明らかになり、現在も日本政府には国家賠償訴訟裁判が起され2009年10月に判決が出ます。参照記事
2009年10月28日:京都地裁でシベリア抑留者による国賠訴訟の判決。原告側の主張は全面的に退けられた。原告団の平均年齢は85歳に達し、27日にも大阪府内の原告が死亡した。「救済には一刻の猶予も許されない」との願いは切実だ。原告団は「たまたま今日は負けたが、必ず勝つ」と決意を新たにした。 「原告の請求をいずれも棄却する」 吉川慎一裁判長が主文を読み上げると、原告と支援者らで埋め尽くされた101号法廷は静まり返った。原告団長の林明治さん(84)は裁判長をじっと見つめ、そしてうつむいた。 「老いぼれは早く死ねという今日の判決は完全な棄民政策。断固として戦っていきたい」。判決後の集会で林さんが声を上げると、集まった約60人から大きな拍手が起きた。
2010年6月17日:第2次大戦後にシベリアやウクライナ、モンゴルで強制労働させられた元抑留者に給付金を支給する特別措置法が6月16日に成立し、17日、支給に向けた準備が総務省で本格化した。厚生労働省などによると、抑留された57万5千人のうち47万3千人が帰還。現在も生存している元抑留者は約7万人とみられる。抑留期間に応じて1人当たり25万~150万円を支給する。財源には、独立行政法人「平和祈念事業特別基金」の約200億円を充てる。特措法では、抑留の実態解明が進んでいない現状を踏まえ、政府に対し抑留中の死亡者などに関する調査を進めるための基本方針を策定することも義務付けた。右上図は、下の参考記事に保存した抑留地(強制収容所:ラーゲリ)の位置地図と捕虜だった木内信夫氏の移動経路(青い線) 参考記事;2012年6月★ 旧ソ連抑留画集 ~ 元陸軍飛行兵 木内信夫 ★ 保存記事